写経会のときに どんな話しをしているの? その9
東光寺(静岡市清水区横砂)で行われている写経会で、副住職(新米和尚)の法話と配布させていただいている絵葉書を紹介させていただきます。
※なぜ、絵葉書と法話(仏教のお話)が登場するのかはこちらをご覧ください。
※写経会の御案内はこちらをご覧ください。
今回は第9回目です。

突然ですが、仏教では「6」という数字を良く見ます。
・お釈迦様が誕生する際の逸話にも登場する六牙の象。6本の牙を持った象。
・悟りを得るために必要な6つの修行である六波羅蜜。
・我々が輪廻転生する6つの世界、六道
などなど、多くの「6」という数字が出てきます。本日の話にも「6」が出てきます。
それが「六根【ろっこん】」です。
「6」という数字のことを考えながら本堂を歩いていると 天蓋【てんがい】も六角形だと気がつき、六根清浄という言葉を 六角形の天蓋の写真と合わせた絵葉書を作成しました。
天蓋は仏像や本堂の頭上に吊られる笠状の装飾で、もとは熱帯国のインドで、王様などの外出の際に使用した日傘に起源するものです。
大切な人を一心に想い日傘を差し出す心を形にしたものが天蓋だと言えるのです!
般若心経に 無眼耳鼻舌身意【むげんにびせつしんい】 という部分があります。
眼耳鼻舌身意 は漢字を見ると意味が分かるかもしれません。
これは眼、耳、鼻、舌、身体つまり神経や触覚、そして 心 です。
この6つの感覚器官に「無」という漢字をつけて
「無眼耳鼻舌身意」と表現しているのです!
「眼耳鼻舌身意」 を仏教では 「六根」 と言います。
つまり、無眼耳鼻舌身意 は 六根は無である。
と言うことができます。
「無【む】」と聞くと 「何も無い」 や 「 有る の反対 」と感じるかもしれません。しかし、無い【ない】とは少し意味合いが異なります。
仏教では「無【む】」を「 無心 」や「 こだわらない心 」、「 執着しない 」 と表現することが多くあります。
すると「無眼耳鼻舌身意」は 六根にこだわらない と言い換えることができ、これを意訳すると
自分が得た情報にこだわらない
と訳すことになります。
これを聞くと 自分が得た情報を信じないでどうするんだ!! 自分を信じてはいけないか!! と違和感を覚えますよね・・・・
でも情報が増えれば増えるほど「迷い」が増えるという経験はありませんか?
仲の良いと思っていた友人の妙な噂話を聞いたら「あれ、あの人はそんな人だったかな?」と悩みませんか?
情報が増えれば増えるほど、見えないはずものが見えてしまい、迷いが増えていくこともあるようです・・
ではどうしたら良いのでしょう。 「六根」という言葉を使うなら
とらわれの心を断ち、浄らかになることを意味する
六根清浄【ろっこんしょうじょう】
という言葉がふさわしいのではないでしょうか。
くもりのない心で、ありのままを見て感じることが大切なのです。
写経を行うのであれば、一心にお経と向き合い
坐禅をするのであれば、一心に自分と向き合う
お参りをするのであれば、一心に御先祖様と向き合う
友人と接するのであれば、余分な情報に左右されることなく一心に友人を想って関わることで、くもりのない心で友人と接することができるはずです。
この、 一心に向き合うこと ・ 一心に想うこと こそが「六根清浄」の実践であります。
相手のことを想い、一心に差し出した日傘が天蓋として後世に伝わったように、今を生きる私達が何かに一心に向き合う大切な行いも後世に伝わっていくのではないでしょうか。
※なぜ、絵葉書と法話(仏教のお話)が登場するのかはこちらをご覧ください。
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今回は第9回目です。

突然ですが、仏教では「6」という数字を良く見ます。
・お釈迦様が誕生する際の逸話にも登場する六牙の象。6本の牙を持った象。
・悟りを得るために必要な6つの修行である六波羅蜜。
・我々が輪廻転生する6つの世界、六道
などなど、多くの「6」という数字が出てきます。本日の話にも「6」が出てきます。
それが「六根【ろっこん】」です。
「6」という数字のことを考えながら本堂を歩いていると 天蓋【てんがい】も六角形だと気がつき、六根清浄という言葉を 六角形の天蓋の写真と合わせた絵葉書を作成しました。
天蓋は仏像や本堂の頭上に吊られる笠状の装飾で、もとは熱帯国のインドで、王様などの外出の際に使用した日傘に起源するものです。
大切な人を一心に想い日傘を差し出す心を形にしたものが天蓋だと言えるのです!
般若心経に 無眼耳鼻舌身意【むげんにびせつしんい】 という部分があります。
眼耳鼻舌身意 は漢字を見ると意味が分かるかもしれません。
これは眼、耳、鼻、舌、身体つまり神経や触覚、そして 心 です。
この6つの感覚器官に「無」という漢字をつけて
「無眼耳鼻舌身意」と表現しているのです!
「眼耳鼻舌身意」 を仏教では 「六根」 と言います。
つまり、無眼耳鼻舌身意 は 六根は無である。
と言うことができます。
「無【む】」と聞くと 「何も無い」 や 「 有る の反対 」と感じるかもしれません。しかし、無い【ない】とは少し意味合いが異なります。
仏教では「無【む】」を「 無心 」や「 こだわらない心 」、「 執着しない 」 と表現することが多くあります。
すると「無眼耳鼻舌身意」は 六根にこだわらない と言い換えることができ、これを意訳すると
自分が得た情報にこだわらない
と訳すことになります。
これを聞くと 自分が得た情報を信じないでどうするんだ!! 自分を信じてはいけないか!! と違和感を覚えますよね・・・・
でも情報が増えれば増えるほど「迷い」が増えるという経験はありませんか?
仲の良いと思っていた友人の妙な噂話を聞いたら「あれ、あの人はそんな人だったかな?」と悩みませんか?
情報が増えれば増えるほど、見えないはずものが見えてしまい、迷いが増えていくこともあるようです・・
ではどうしたら良いのでしょう。 「六根」という言葉を使うなら
とらわれの心を断ち、浄らかになることを意味する
六根清浄【ろっこんしょうじょう】
という言葉がふさわしいのではないでしょうか。
くもりのない心で、ありのままを見て感じることが大切なのです。
写経を行うのであれば、一心にお経と向き合い
坐禅をするのであれば、一心に自分と向き合う
お参りをするのであれば、一心に御先祖様と向き合う
友人と接するのであれば、余分な情報に左右されることなく一心に友人を想って関わることで、くもりのない心で友人と接することができるはずです。
この、 一心に向き合うこと ・ 一心に想うこと こそが「六根清浄」の実践であります。
相手のことを想い、一心に差し出した日傘が天蓋として後世に伝わったように、今を生きる私達が何かに一心に向き合う大切な行いも後世に伝わっていくのではないでしょうか。
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