オンライン坐禅会 法話原稿 瞋拳不打笑面【しんけんしょうめんをたせず】
この記事は臨済宗青年僧の会のオンライン坐禅会で法話をさせていただいたときの原稿です。
※臨済宗青年僧の会 オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。

瞋拳不打笑面 【しんけんしょうめんをたせず】
妻や娘は声を揃えて私の顔は怖いと言います。
そんなことはないだろうと思いながら鏡を見ると・・・
「確かに怖い」
と思ってしまいます。
東光寺の境内には保育園があります。
私もこの保育園で勤務をさせてもらっているので、お寺と保育園の往復をしています。
バタバタと仕事に追われているときの私はどんな顔なのでしょうか。
予想通り、もともと怖く見える顔なのに、さらに眉間にしわを寄せて口をへの字に曲げているので、とても怖い顔になっていることでしょう・・・
そんな私に園児達は無邪気に
「よこやませんせーだ」とか「あ、おしょうさんだ~」と笑顔で手を振ってくれます。
その声や笑顔を見ると、私の口角はあがり、かわいらしい園児達の笑顔を見ようと目を大きく開けるので、しわが寄っていた眉間も広がり、顔がおだやかになります。
それと同時に、私の心もおだやかになります。
禅の言葉に
瞋拳不打笑面
【しんけん しょうめんを たせず】
という言葉があります。
瞋拳【しんけん】とは、怒って握りしめた拳です。
笑面【しょうめん】は、笑顔であり、
不打【たせず】は、“打つことができない”を意味します。
つまり、「怒って拳を振り上げても、笑顔を打つことはできない。」
という意味です。
どんなに仕事が立て込んだり、理不尽なことがあったりしても、小さな子供が純真無垢な笑顔で声をかけながら手を振ってくれれば、その瞬間はこちらも笑顔になるものです。
もちろん禅の言葉ですので、言葉通りの意味以外にも受け取り方があります。
「笑面」を崇高な教え、
「瞋拳」は私のような凡人の振るまいだと考えるどうでしょうか。
崇高な教え、つまり仏教や禅の教えを体得された方に、私のような凡人が拳をあげて挑むように、何か言いがかりをつけようとしても、まったく相手になりません。
しかし、これは笑顔にはかなわないから、最初から拳を握ってはいけないということでもありません。
拳を握って相手と向き合うからこそ、笑顔で接する相手の大きさを実感することができるのです。
これは多くの世界に共通することではないでしょうか。
禅の問答、いわゆる禅問答も同じです。
師匠との禅問答では、師匠からいただいた問題に対する自分なりの精一杯の答えを持っていきます。
その答えが師匠の考えているぴったりと一致することもありますが、大半は間違っており再挑戦しなくてはなりません。
この時、間違った答えを師匠に示したことは決して無駄ではありません。無駄に思えるような積み重ねこそが瞋拳であり、拳を握ったからこそ師匠の笑面を感じることができるのです。
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