絵葉書 衆生本来仏なり
御縁をいただき、大分県の梅園の里という宿に宿泊をさせていただきました。
県内最大の天体望遠鏡を使った観察や星空散策もできる天球館という施設も併設をしています。
紹介してくださった方が
「今日の宿は梅園の里というところです。」
というので、私は
「梅が有名な場所なのかな」
と単純に思っていました。しかし、話をうかがうと

三浦梅園の生家の近くにあるから、梅園の里だと教えていただきました。
三浦梅園は江戸時代の思想家で、様々な著書を残しています。
有名な言葉で
「枯れ木に花咲きたりというとも、先ず生木に花さく故をたずぬべし。」
「枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け」
も三浦梅園の言葉と知って驚きました。
恥ずかしいことに、私は三浦梅園のことを全く知らなかったのですが、調べてみると、今回の記事で紹介したいと思っている言葉と深い関係がある言葉もありました。
今日はこちらの絵葉書を準備しました。

輝く宝石の中に”こまめ(東光寺の未確認キャラクター)”がいます。
彼の手には宝石が。
そして
周囲にも宝石があります。
さらに、
「ダメな自分の奥深くにも 光輝くものがある」
という言葉を書きました。
これは、白隠禅師坐禅和讃というお経の最初の言葉である、
衆生本来仏なり
という一句を紹介したくて作成したものです。
生きとし生けるもの(衆生) 誰にでも 仏様の心があります。
と250年前に大活躍をした白隠禅師という和尚様が語りかけてくれています。
私が初めてこの言葉を知ったのは、大人になってからです。
正確に言いますと、子供の頃からお唱えしていましたので言葉は知っていました。
しかし、意味は知りませんでした。
私が「衆生本来仏なり」と初めて向き合ったのは大人になってからです。
私は中学校の教員をしていましたが、ある日突然、自分が生まれ育ったお寺に戻らなくてはいけないのではないかと悩むようになりました。
しかし、 私は幼少期からの思い出のせいで、お寺という場所は非常に嫌な場所だと当時は思っていました。
今となっては非常にもったいない話ではありますが、お寺という場所から少しでも離れたいと思っていました。
また、なぜ学校の先生になったかと言いますと、それは小学校5、6年生の時の担任の先生の影響が強くあります。
この先生は「遊ぶ宿題」を非常によく出してくれました。
「遊ぶ宿題」というのは毎回違う仲間と遊びなさいという宿題でした。
そして、この宿題は遊ぶだけでは終わりません。
遊んだ後 日記を書くのです。
日記の内容は一緒に遊んだ仲間の良い部分を書くというものでした
一緒に遊んだ仲間の名前を書き、そこにそれぞれの良さを書いていくのです。
最初のうちは戸惑いましたが、だんだん 初めて遊んだ仲間の良いところもすぐに見つけられるようになりこの宿題が楽しくなっていきました。
そして、この日記を提出すると先生が全員の日記を読み、それぞれの良いところを朝の会や帰りの会で紹介してくれたのです。
お寺で生活をしていると叱られることが多くあり、褒められることはほとんどありませんでしたが、小学校5、6年生の時はたくさん褒めてもらえる。さらに友達の良さもすぐ見つけられるようになる。
本当にありがたい経験をしたなと感じると同時に、自分もそのような経験をたくさんの人にしてほしいと思うようになって、お寺を離れて教員を目指すようになりました。
そして運よく教員採用試験に合格し中学校の教員をしていたわけですが、様々なご縁によって
「自分が育ったお寺をお寺に戻らなくてはいけないのかもしれない」
と悩む時期が来ました。
自分は中学校の教員として非常に充実した毎日を過ごしておりましたが、
自分のやりたいことだけをやっていていいのか。
自分を育ててくれたお寺をほっておいていいのか。
育ててくれた地域に戻らなくていいのか。
育ててくれた地域を無視しながら自分のやりたいことだけをやっている人間が教壇に立っていいのか。
本当に悩みました。
そんな時期に御縁をいただいて 老大師と呼ばれる和尚様と話す機会がありました。
老大師というのは禅の修行を積まれた徳の高い和尚様です。
その老大師と1対1で話をさせていただくことになった時、老大師が私に言ったのです。
「あなたは白隠禅師坐禅和讃というお経を知っていますか」
まだ禅の修行を何もしていない私でしたが、たまたま 幼少期からこのお経をお唱えしていたので、
「はい 知っています」
と答えました すると 老大師は
「このお経の一番最初になんて書いてありますか」
と聞くのです。私は今思うと恥ずかしいくらい堂々と
「衆生本来仏なりと書いてあります」
と答えました
すると 老大師は
「それはどういう意味ですか」
と聞くのです。
私は、はっとしました。そこで初めて気がついたのです。
私は、これまで何度もお唱えしてきたお経の意味を何も知らなかったことに。
何も答えられず 戸惑っている私に老大師は優しく語りかけてくれました。
「衆生というのは 生きとし生きるもの みんな ということです。
衆生本来仏なり、 生きとし生きるもの みんな 本当は 仏様なんですよ。 あなたも 仏様 私も 仏様。
禅の修行というのは、このことに気がついていくことなんですよ。」
そうおっしゃったのです
私はこの言葉をきっかけにしてお寺・禅というものを改めて見直すようになりました。
幼少期の私は、“お寺は叱られる場所 嫌な場所”と思い込んでいました。そして反対に、“学校は人の良さを見つける場所 自分の良さに気がつく場所” そう思っていました。
だからこそ お寺ではなく学校という場所で過ごしたい。
教員として生きていきたい。
そう考えていたのです。
しかし、私は小学校 5、6年生の担任の先生に教えていただく前に
「誰もが素晴らしいものを持っている」という教えに出会っていたのです。
衆生本来仏なり
小学校1年生の頃にはもう お唱えしていました。
しかし 意味を 意味が分かっていなかった
だからこそ仏教の大切な教えというものを見逃して自分の勝手な思い込みでお寺を見ていたのです。
本当に恥ずかしい思い出ですが、老大師の言葉によって、自分がどれだけ思い込みを握りしめて生きてきたのかを知ったとき、もっとお寺のことや禅と向き合っていこうと決心がつきました。
三浦梅園の言葉に
知識というものは それが学習者の心に同化し
かつその人の性格に 表れる時のみ 真の知識となる。
という言葉があります。反論のしようがない納得の言葉です。
これは、「衆生本来仏なり」という大切な教えと向きあう心に通じるものがあります。
三浦梅園の言葉の
「知識」は「教え」
「学習者」は「修行者」
「心に同化」は「信仰」
「人の性格に 表れる」は「実感する」
と読み取れば、
教えを 修行者が 信仰し 実感したとき 真の教えとなる
と読み取れるのです。三浦梅園は学んだことを自分の中に落とし込んだものを知識と呼んでいます。
仏教の教えも同じです。ただ、言葉の解釈として
衆生本来仏なりは、生きとし生きるもの みんな 本当は 仏様
と知っていても意味がありません。
それを、自分の中に落とし込む、心から信じ切るから教えとなるのです。
では、どうしたら良いのか。
それは「坐禅和讃」ですから、坐禅です。
身体と呼吸を調え、心を調える。
自分の心が調えば、自分と周囲の素晴らしさに気がつくことができる。
周囲の素晴らしさに気がついたとき、自分は生かされていると実感できる。
生かされている実感こそが、衆生本来仏なりを自分の中に落とし込んだ姿だと私は思っています。
さぁ、一緒に身体と呼吸と心を調えていきましょう。
2回目の坐禅を始めます。
県内最大の天体望遠鏡を使った観察や星空散策もできる天球館という施設も併設をしています。
紹介してくださった方が
「今日の宿は梅園の里というところです。」
というので、私は
「梅が有名な場所なのかな」
と単純に思っていました。しかし、話をうかがうと

三浦梅園の生家の近くにあるから、梅園の里だと教えていただきました。
三浦梅園は江戸時代の思想家で、様々な著書を残しています。
有名な言葉で
「枯れ木に花咲きたりというとも、先ず生木に花さく故をたずぬべし。」
「枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け」
も三浦梅園の言葉と知って驚きました。
恥ずかしいことに、私は三浦梅園のことを全く知らなかったのですが、調べてみると、今回の記事で紹介したいと思っている言葉と深い関係がある言葉もありました。
今日はこちらの絵葉書を準備しました。

輝く宝石の中に”こまめ(東光寺の未確認キャラクター)”がいます。
彼の手には宝石が。
そして
周囲にも宝石があります。
さらに、
「ダメな自分の奥深くにも 光輝くものがある」
という言葉を書きました。
これは、白隠禅師坐禅和讃というお経の最初の言葉である、
衆生本来仏なり
という一句を紹介したくて作成したものです。
生きとし生けるもの(衆生) 誰にでも 仏様の心があります。
と250年前に大活躍をした白隠禅師という和尚様が語りかけてくれています。
私が初めてこの言葉を知ったのは、大人になってからです。
正確に言いますと、子供の頃からお唱えしていましたので言葉は知っていました。
しかし、意味は知りませんでした。
私が「衆生本来仏なり」と初めて向き合ったのは大人になってからです。
私は中学校の教員をしていましたが、ある日突然、自分が生まれ育ったお寺に戻らなくてはいけないのではないかと悩むようになりました。
しかし、 私は幼少期からの思い出のせいで、お寺という場所は非常に嫌な場所だと当時は思っていました。
今となっては非常にもったいない話ではありますが、お寺という場所から少しでも離れたいと思っていました。
また、なぜ学校の先生になったかと言いますと、それは小学校5、6年生の時の担任の先生の影響が強くあります。
この先生は「遊ぶ宿題」を非常によく出してくれました。
「遊ぶ宿題」というのは毎回違う仲間と遊びなさいという宿題でした。
そして、この宿題は遊ぶだけでは終わりません。
遊んだ後 日記を書くのです。
日記の内容は一緒に遊んだ仲間の良い部分を書くというものでした
一緒に遊んだ仲間の名前を書き、そこにそれぞれの良さを書いていくのです。
最初のうちは戸惑いましたが、だんだん 初めて遊んだ仲間の良いところもすぐに見つけられるようになりこの宿題が楽しくなっていきました。
そして、この日記を提出すると先生が全員の日記を読み、それぞれの良いところを朝の会や帰りの会で紹介してくれたのです。
お寺で生活をしていると叱られることが多くあり、褒められることはほとんどありませんでしたが、小学校5、6年生の時はたくさん褒めてもらえる。さらに友達の良さもすぐ見つけられるようになる。
本当にありがたい経験をしたなと感じると同時に、自分もそのような経験をたくさんの人にしてほしいと思うようになって、お寺を離れて教員を目指すようになりました。
そして運よく教員採用試験に合格し中学校の教員をしていたわけですが、様々なご縁によって
「自分が育ったお寺をお寺に戻らなくてはいけないのかもしれない」
と悩む時期が来ました。
自分は中学校の教員として非常に充実した毎日を過ごしておりましたが、
自分のやりたいことだけをやっていていいのか。
自分を育ててくれたお寺をほっておいていいのか。
育ててくれた地域に戻らなくていいのか。
育ててくれた地域を無視しながら自分のやりたいことだけをやっている人間が教壇に立っていいのか。
本当に悩みました。
そんな時期に御縁をいただいて 老大師と呼ばれる和尚様と話す機会がありました。
老大師というのは禅の修行を積まれた徳の高い和尚様です。
その老大師と1対1で話をさせていただくことになった時、老大師が私に言ったのです。
「あなたは白隠禅師坐禅和讃というお経を知っていますか」
まだ禅の修行を何もしていない私でしたが、たまたま 幼少期からこのお経をお唱えしていたので、
「はい 知っています」
と答えました すると 老大師は
「このお経の一番最初になんて書いてありますか」
と聞くのです。私は今思うと恥ずかしいくらい堂々と
「衆生本来仏なりと書いてあります」
と答えました
すると 老大師は
「それはどういう意味ですか」
と聞くのです。
私は、はっとしました。そこで初めて気がついたのです。
私は、これまで何度もお唱えしてきたお経の意味を何も知らなかったことに。
何も答えられず 戸惑っている私に老大師は優しく語りかけてくれました。
「衆生というのは 生きとし生きるもの みんな ということです。
衆生本来仏なり、 生きとし生きるもの みんな 本当は 仏様なんですよ。 あなたも 仏様 私も 仏様。
禅の修行というのは、このことに気がついていくことなんですよ。」
そうおっしゃったのです
私はこの言葉をきっかけにしてお寺・禅というものを改めて見直すようになりました。
幼少期の私は、“お寺は叱られる場所 嫌な場所”と思い込んでいました。そして反対に、“学校は人の良さを見つける場所 自分の良さに気がつく場所” そう思っていました。
だからこそ お寺ではなく学校という場所で過ごしたい。
教員として生きていきたい。
そう考えていたのです。
しかし、私は小学校 5、6年生の担任の先生に教えていただく前に
「誰もが素晴らしいものを持っている」という教えに出会っていたのです。
衆生本来仏なり
小学校1年生の頃にはもう お唱えしていました。
しかし 意味を 意味が分かっていなかった
だからこそ仏教の大切な教えというものを見逃して自分の勝手な思い込みでお寺を見ていたのです。
本当に恥ずかしい思い出ですが、老大師の言葉によって、自分がどれだけ思い込みを握りしめて生きてきたのかを知ったとき、もっとお寺のことや禅と向き合っていこうと決心がつきました。
三浦梅園の言葉に
知識というものは それが学習者の心に同化し
かつその人の性格に 表れる時のみ 真の知識となる。
という言葉があります。反論のしようがない納得の言葉です。
これは、「衆生本来仏なり」という大切な教えと向きあう心に通じるものがあります。
三浦梅園の言葉の
「知識」は「教え」
「学習者」は「修行者」
「心に同化」は「信仰」
「人の性格に 表れる」は「実感する」
と読み取れば、
教えを 修行者が 信仰し 実感したとき 真の教えとなる
と読み取れるのです。三浦梅園は学んだことを自分の中に落とし込んだものを知識と呼んでいます。
仏教の教えも同じです。ただ、言葉の解釈として
衆生本来仏なりは、生きとし生きるもの みんな 本当は 仏様
と知っていても意味がありません。
それを、自分の中に落とし込む、心から信じ切るから教えとなるのです。
では、どうしたら良いのか。
それは「坐禅和讃」ですから、坐禅です。
身体と呼吸を調え、心を調える。
自分の心が調えば、自分と周囲の素晴らしさに気がつくことができる。
周囲の素晴らしさに気がついたとき、自分は生かされていると実感できる。
生かされている実感こそが、衆生本来仏なりを自分の中に落とし込んだ姿だと私は思っています。
さぁ、一緒に身体と呼吸と心を調えていきましょう。
2回目の坐禅を始めます。