昔話に学ぶ 分福茶釜 その3
この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。
※東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)についてはこちらをご覧ください。
※臨済宗青年僧の会 オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。
昔話に学ぶ 分福茶釜 その3 【「受け入れる」心】

分福茶釜シリーズ その3です。
皆さんは あきらめが良い方ですか?
私は悪いです。
分福茶釜では「あきらめる」ことが尊いことを教えてくれている場面があります。
昔ばなしは”良くない見本”となる人と、”良い見本”となる人からできていることが多くあります。
分福茶釜では”良くない見本”が前半の和尚さん。そして”良い見本”がくず屋さんです。くず屋とは現代の中古品の販売をしている人と思っていただければ分かりやすいかもしれません。
貧乏だったくず屋さんは、突然和尚さんから茶釜をもらって大喜び。
「こんな素晴らしい茶釜を貰えるなんて」と家に帰って一人でお祝いをしました。
用意したのはたっぷりのご飯と尾頭付きの豪華な魚。
しかし、食べようとしたら魚が消えてしまいました。
家には誰もいません。
ですから、魚が消えるはずはありません。
そうです、茶釜に化けたタヌキが食べたのです。
あるはずのものが、無くなった。
みなさんなら、どうしますか。
私なら探し回ります。
それでも見つからなければ、パニックです。
イライラしながら、あっちを見たり、こっちを見たり・・・
しかし、くず屋さんは違います。
「はて、おかしいな」と言って寝ようとするのです。
そうなんです。魚が無くなったことを受け入れたのです。
「受け入れる」ことは「あきらめること」です。あきらめるというと、あまり良い意味で使われませんが、実際には素晴らしい心なのです。
試合や、勉強、仕事をあきらめるのは良くありませんが、今回の「受け入れる」・「あきらめる」は「物事をありのままに見る」という姿なのです。
坐禅をして、身体を調え、呼吸を調えると、心が調います。調った心で周囲を見渡せば、見え方が変わります。
この見え方が「ありのままに見る」ことであり、「受け入れてあきらめる」ことなのです。
無くなった魚をいくら探しても出てきません。それよりも、そのことで心悩ますよりもしっかりと寝たほうが心が休まります。
そんな大切なことを教えてくれている場面です。
