昔話に学ぶ 分福茶釜 その1
この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。
※東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)についてはこちらをご覧ください。
※臨済宗青年僧の会 オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。
昔話に学ぶ 分福茶釜 その1

これからしばらく分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)という昔ばなしを紹介しながら、この話しから何を学んでいけるかを考えて行きたいと思っています。
みなさんは分福茶釜という話しを聞いたことがありますか?
私は、今回分福茶釜の話しをすることを決めてから本などを読みなおしました。
正直に言うと、「茶釜からタヌキが顔を出して綱渡りをする話し」という認識しかありませんでした。
しかし、改めて読んでみると学ぶべきものがつまった話しでした。
やっぱり、長い時間受け継がれてきたものには、受け継がれてきた意味があり、誰かに伝えたくなる中身があるものです。
分福茶釜は大きく分けると2種類の話しがあるようです。
茶釜にばけたタヌキが芸をしてみんなを喜ばせるという部分はどの話しも同じですが、前半と最後に多少の違いがあります。
違いはお寺の和尚が茶釜を手に入れる場面や、茶釜に化けたタヌキが病気で亡くなるか亡くならないかという部分です。
どちらが正しいということはありませんが、今回は30年以上前に日本昔話で放送された最後にタヌキが病気で亡くなってしまうものを紹介させてもらいます。
ですから話しを聞いていくと
「あれ、その部分は少し違うんじゃないか」と感じる部分があるかもしれませんが、「あ~、そういう分福茶釜もあるんだぁ」と感じながら話しを聞いてください。
分福茶釜のあらすじは
和尚が茶釜を手に入れる
↓
不気味な茶釜だと感じる
↓
茶釜をくず屋(リサイクルショップ)に渡す
↓
分福茶釜こと、たぬきが化けた茶釜とくず屋が協力をして大儲け
↓
分福茶釜引退
と言うものです。
皆さん、御存じの通り昔ばなしには、とってもいい人と、その反対の人で物語が構成されており、分かりやすくできています。
今回の”そうでない人”はお寺の和尚さんです。
分福茶釜の話は和尚さんが立派な茶釜を手に入れるところからはじまります。
そして、物語を読んでいる人に分かりやすく「この和尚はだめだなぁ」と思われるために、本来は和尚としてやってはいけないことをあえてするのです。
それは、何か。
茶釜を次から次に買ってくる! そして、小僧(弟子)の言うことを信じないのです。
この2つの愚かな行為をすることで、物語の構成上必要な”ダメな人”が和尚だと印象付けているのです。
小僧(弟子)の言うことを信じないことについては次回紹介をしますが、今回は「茶釜を次々に買ってくる」と言うことについて話しをさせていただきます。
禅の言葉に執着(しゅうじゃく)という言葉があります。
普段から使っている言葉としては、執着(しゅうちゃく)と言っています。
禅では執着は煩悩や苦しみの原因と言っています。
そして、この悪いことを”わざと”和尚がすることで「こうなっちゃだめだよ」と教えてくれているのです。
茶釜に執着して、「あの茶釜が欲しい、この茶釜も欲しい、あっちの珍しい茶釜も欲しい」本当は1つあれば良いのに、どんどん欲しくなる。茶釜に執着してしまっています。
やがてこの心は「欲しいのに手に入らないから悔しい」という苦しみになり、「悔しいから盗んでしまえ! だましてでも取ってしまえ」と悪行に繋がっていきます。
そうなってはいけないと、昔話が始まることが多くあります。
この和尚さんを見て、「あいつはだめなやつ」と感じるのか、
それとも、「あ、私にも同じ部分がある」と感じるのか。
落ち着いた心で、この和尚さんの姿を見てみると、今までとは違う見え方があるかもしれません。
今日はみなさん坐禅会に参加をしてくれています。
姿勢を意識して、ゆっくり呼吸をする。すると心が落ち着いてきます。これが坐禅です。
落ち着いた心で、昔話に登場するこの和尚さんの姿と自分の姿を見てみると、どう見えるか・・・
2回目の坐禅をしてみると分かるかもしれません。
