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手放した手でつかむものは何か。

臨済宗青年僧の会ではオンライン坐禅会を実施しています。私も時々ですが坐禅を担当させていただいています。
※オンライン坐禅会のホームページはこちらです。


その際に話した内容を備忘録として記しておこうと考えています。

この原稿は2023年3月26日のオンライン坐禅会で話した内容です。




手放した手でつかむものは何か。


ここに一枚の絵があります。




600手を広げて手をつなぐ



たくさんの生命が互いに手を取り合っています。


私はこの絵が好きです。


そして、この絵は私達が目指すべき姿だとも感じます。




先日、あるホテルに宿泊をさせていただきました。

私のような未熟な者が宿泊してはいけないような立派なホテルで、大きな入り口から入ったときから緊張の連続でした。

フロントで受付の際に、翌日の朝食の説明をしてくれました。

「朝食は洋食のビュッフェ形式でございます。」

そんな言葉を聞いて、パン好きな私は小躍りしなら部屋に入りました。



その日は1人で宿泊することになっていたので夕食は近くのスーパーでバナナと飲み物を買って済ませました。

だって、朝食は食べ放題。どんなに食べても値段は同じ。

夕食を軽く済ませれば、きっとたくさん食べられるはずだ。

そんな思いが働いていました。




翌朝、開店前に並ぶのは少し恥ずかしいので、朝食会場の始まる時間に部屋を出発。

5分程で朝食会場に到着すると、すでに何人かは食事を始めていました。

会場を見ると、所狭しとおいしそうな食事が並んでいます。

どれも魅力的な食事です。


あれも欲しい、これも欲しいとウロウロしていると、アッと言う間に席は埋まり、会場が混雑してきました。

何度もお代わりをしようと思っていましたが、混雑した会場で何度も席を立つのは面倒なので、お盆に詰められるだけ詰めて席に戻りました。

他の人達は何を選んでいるのか気になったので、席について食事をしながら皆さんが食事を選んでいる場所を眺めていました。




そのとき、印象的な出来事が起こりました。


1人の女性が、お盆にいっぱい詰め込んだ食事を手にしながら、前を歩いている子供に

「ちょっと、どいてよ!」

と強い口調で叫んだのです。

すると、近くにいた男性の大きな手が子供をそっと包むように移動させてくれたのでした。

その後、女性、子供、男性はそれぞれ別の席へと戻っていきました。




そのとき、私はなんだか恥ずかしい気持ちになりました。


自分が食べたいものをいっぱい詰め込んだお盆を、離すまいと握りしめ、その食事を安全に運ぶために、目の前の知らない子供に大きな声を出す女性は、先ほどまであそこにいた私の姿そのものだと感じたのです。


私は小心者なので「ちょっと、どいてよ!」などとは言えませんが、食事を持っているときに子供が前を歩いていたら「どうにかして、この子の前に移動したい」と考えていたはずです。


子供に何の罪もありません。ただ食事を選んでいただけです。


そんな子供を怖がらせたのは、自分のお盆をギュウッと手を握りしめた人でした。


そして、その子供を助けたのは、広げた手でした。


なぜ男性は手を広げることができたのか。彼も食事を選んでいました。しかし、手を広げて子供を助けました。


単純なことでした。


食事をいったん置いたのです。


そして、空いた手で子供を包み込んだ。


子供は安心をして食事選びに戻っていきました。



前日から食事を減らして、朝食に気合を入れていた私の手は、お盆を握りしめていた手なのか、それとも子供を救う手だったのか。


それを考えたら、恥ずかしくなりました。



臨済宗妙心寺派の令和5年のテーマは

「おかげさま 迷いの中に光を見出す ~煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)~」

です。

このテーマについて書かれた妙心寺派管長猊下の言葉を先日の記事で紹介させていただきました。
※その記事はこちらです。


管長猊下は


人間である限り、煩悩を無くすことはできません。断ち切っても尽きることなく湧いてくるのが煩悩であります。

しかしご安心ください。私たちには、生まれながらにして仏心という光が具わっています。この光を頼りに人生を歩めば、煩悩はあっても暗闇に迷うことはありません。




と、おっしゃっています。



煩悩とは私達を悩ます心の働きです。

あれも欲しい、これも欲しいと欲張る心も煩悩です。

食事を欲する心の全てが煩悩というわけではありません。

食事をしなければ、私達は生命を保つことができません。

しかし、必要以上に欲しがる心が湧いてくるのです。そして、この欲張る心が結果的に自分自身を惑わすのです。



ホテルの朝食会場で子供をどかそうとした人の手は握りしめられ、

子供を救った手は、広げられて何も持っていませんでした。



管長猊下が言う通り

「人間である限り、煩悩を無くすことはできません。断ち切っても尽きることなく湧いてくるのが煩悩であります。」

しかし、私たちには、生まれながらにして仏心という光が具わっているのです。

欲張ってしまった手を広げることができるのです。

人間である限り、手を握らずにはいられません。どうしても握ってしまうのです。しかし、私たちはその手をはなすことができるのです。そして、その手で誰かを包むことができるのです。



その瞬間を目の当たりにしたときに、自分があの場面で手を広げることができたかを考えたとき、私は恥ずかしい気持ちになったのです。



冒頭に1枚の絵を紹介しました。


全員が手をつないでいます。


手をつなぐためには、まず手を広げます。


ギューっと握りしめた手を開いたとき、私達は何を握ったら良いのでしょうか。


私は、”誰か”を限定することなく、差別することなく、ただ手をつなぎたい。





大切な答えがこの絵には込められています。
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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