涅槃図に帝釈天が描かれている理由 【オンライン坐禅会での法話】
臨済宗青年僧の会ではオンライン坐禅会を実施しています。私も時々ですが坐禅を担当させていただいています。
※オンライン坐禅会のホームページはこちらです。
その際に話した内容を備忘録として記しておこうと考えています。
オンライン坐禅会には一般の方向けの会と子供向けの会があります。
今回は子供向けの坐禅会で話したものです。
【涅槃図に帝釈天が描かれている理由】
「2月14日はバレンタインです。では2月15日は何の日か知っていますか。」
2月にお坊さんが、よく使う言葉です。
ただでさえ面白くなさそうがお坊さんの話が、もっと面白くなくなる可能性があるにも関わらず、つい使ってしまう定番すぎる言葉です・・・
答えは、涅槃会【ねはんえ】です。

お釈迦様が亡くなった日である2月15日に行われる法要です。
もう少し簡単に言うと、お釈迦様の法事です。
今の時代、大切な方が亡くなると遺影という写真を飾ってお参りをします。
それと同じように、涅槃会の法要をするときには亡くなったお釈迦様の絵を飾ります。
お釈迦様が亡くなったことを涅槃【ねはん】とも言うので、この絵を涅槃図【ねはんず】と呼んでいます。
さすがに2500年以上前に亡くなっているので、写真ではありません・・・
そして、涅槃図には大きな特徴があります。
それは、たくさんの”もの”が描かれているということです。

月・雲・河・樹木

お弟子様(人間)や神々

そして動物や虫
本当にたくさんのものが描かれています。
一つ一つ紹介をしていくと時間がかかりすぎてしまうので、今回はこの方について紹介をさせていただきます。

亡くなれたお釈迦様が中央に描かれています。
そのお釈迦様の近くで、美しい着物を着た方が泣いています。

名前を聞いたことがあるかもしれません。
この方は帝釈天(たいしゃくてん)という方です。
帝釈天は、古代インドの神話における天界の軍神です。
雨を降らして地上に恵みを与え、大地を潤す神としても崇拝されていたと言われています。
後に仏法に帰依し、お釈迦様の修行の守護神となり、慈悲深く柔和な性質も持つようになったと言われています。
この帝釈天、お釈迦様が亡くなったことに気がついて、すぐ近くにまで来て泣いています。
では、普段はどこにいるのでしょうか。
お釈迦様やその教えを学ぶ人々の守護神なのですから、お釈迦様の近くにいるのでしょうか。
実はそうではありません。
仏教の世界で考えられている須弥山(しゅみせん)という大きな大きな、本当に大きな山の上にいます。
その高い高い山の頂上にある城にいて、そこから地上を見守っていると言われています。
涅槃図には、そんな高い場所にいるはずの帝釈天が、お釈迦様のすぐ近くで泣いている様子が描かれています。
この帝釈天は、涅槃図をお参りする私達に何を教えてくれているのでしょうか。
地上から遠く離れた場所にいる帝釈天がこの場にいる。
それは、帝釈天がしっかりと地上を見守っていたことを示しています。
しっかりと見守っていたから、お釈迦様が亡くなったことに気がつくことができたのです。
これは、まさに、あの言葉を示しているように感じます。
昔は多くの方が口癖のように言っていた・・・・
「お天道様が見ているよ!」
です。

「良いことも悪いことも、すべて誰かに見られているぞ! いつでも誰かに見られているからしっかりやりなさい。」
という意味です。
誰も見ていないと、つい悪いことをしたくなってしまいます。
自習の時間に、先生が見ていなければクラスメイトと話したくなりませんか。
信号待ちをしているときに、誰も見ていないし車も来なければ渡ってしまおうと思いませんか。
トイレから外に出るとき、誰も見ていなければ、ついつい手を洗わずに外に出たいと思いませんか。
私は、ときどきこういった誘惑に負けそうになります。
しかし、誘惑に負けそうになったとき、同時に
「お天道様が見ているよ」
という言葉も思い出します。すると、「あ、悪いことはできないな。」と自分を止めることができます。
いつも坐禅会でお唱えする「白隠禅師 坐禅和讃(はくいんぜんじ ざぜんわさん)」というお経に
・衆生本来仏なり
・衆生の外に仏なし
・衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
とあります。衆生(しゅじょう)とは「すべての命あるもの」という意味です。
ですから、
・私達は誰もが仏様のような素晴らしい心を持っている
・私達以外に、仏様はいない
・それなのに、仏様のような素晴らしい心があるのに、遠くに探しにいくなんてもったいない
と読み取ることができる言葉です。
私が仏!? だったら、お天道様とは?
お天道様って空から私達を見ているんじゃないの?
え!? 白隠禅師は”お天道様が見ているよ”と違うこといっているの!?
そう、感じるかもしれません。
しかし、そうではありません。
涅槃図に描かれているように、帝釈天は山の頂上にいるはずなのに、お釈迦様の近くにいます。
自由自在に動くことができます。
同じように私達の心も自由自在に動きます。
ときには、お天道様のごとく空から私達を客観的に見ることもできます。
そして、ときには自分の内側から自分自身をみることもできます。
白隠禅師はこのことを「私達以外に、仏様はいない」と表現されました。
そしてこの仏様のような尊い心が、自分の内側から自分を見守っているのです。
だからこそ、私達は悪いことなできるはずがないのです。
誰かに見られているときに、堂々と悪いことができますか。
できるはずがありません。
しかし、私達はときどき、自分の中に仏の心があることを忘れてしまします。
だからこそ、「誰にも見られていない」と思い込んで悪いことをしてしまうのです。
どうしたら良いのでしょうか?
いろいろ方法はあります。
坐禅も大切です。
姿勢を良くして、ゆっくり呼吸をする。そうすると心が調います。
心が調ったとき、自然と自分の心が仏の心だと思い出すことができます。
涅槃会のお参りも同じです。涅槃図を前に手を合わせてお参りをしたとき、様々な教えを感じることができます。
心を調える方法は1つではありません。
心を調える素晴らしい習慣が私達の周りにはたくさんあります。
この、素晴らしい習慣をこれからも大切にしていきましょう。
※オンライン坐禅会のホームページはこちらです。
その際に話した内容を備忘録として記しておこうと考えています。
オンライン坐禅会には一般の方向けの会と子供向けの会があります。
今回は子供向けの坐禅会で話したものです。
【涅槃図に帝釈天が描かれている理由】
「2月14日はバレンタインです。では2月15日は何の日か知っていますか。」
2月にお坊さんが、よく使う言葉です。
ただでさえ面白くなさそうがお坊さんの話が、もっと面白くなくなる可能性があるにも関わらず、つい使ってしまう定番すぎる言葉です・・・
答えは、涅槃会【ねはんえ】です。

お釈迦様が亡くなった日である2月15日に行われる法要です。
もう少し簡単に言うと、お釈迦様の法事です。
今の時代、大切な方が亡くなると遺影という写真を飾ってお参りをします。
それと同じように、涅槃会の法要をするときには亡くなったお釈迦様の絵を飾ります。
お釈迦様が亡くなったことを涅槃【ねはん】とも言うので、この絵を涅槃図【ねはんず】と呼んでいます。
さすがに2500年以上前に亡くなっているので、写真ではありません・・・
そして、涅槃図には大きな特徴があります。
それは、たくさんの”もの”が描かれているということです。

月・雲・河・樹木

お弟子様(人間)や神々

そして動物や虫
本当にたくさんのものが描かれています。
一つ一つ紹介をしていくと時間がかかりすぎてしまうので、今回はこの方について紹介をさせていただきます。

亡くなれたお釈迦様が中央に描かれています。
そのお釈迦様の近くで、美しい着物を着た方が泣いています。

名前を聞いたことがあるかもしれません。
この方は帝釈天(たいしゃくてん)という方です。
帝釈天は、古代インドの神話における天界の軍神です。
雨を降らして地上に恵みを与え、大地を潤す神としても崇拝されていたと言われています。
後に仏法に帰依し、お釈迦様の修行の守護神となり、慈悲深く柔和な性質も持つようになったと言われています。
この帝釈天、お釈迦様が亡くなったことに気がついて、すぐ近くにまで来て泣いています。
では、普段はどこにいるのでしょうか。
お釈迦様やその教えを学ぶ人々の守護神なのですから、お釈迦様の近くにいるのでしょうか。
実はそうではありません。
仏教の世界で考えられている須弥山(しゅみせん)という大きな大きな、本当に大きな山の上にいます。
その高い高い山の頂上にある城にいて、そこから地上を見守っていると言われています。
涅槃図には、そんな高い場所にいるはずの帝釈天が、お釈迦様のすぐ近くで泣いている様子が描かれています。
この帝釈天は、涅槃図をお参りする私達に何を教えてくれているのでしょうか。
地上から遠く離れた場所にいる帝釈天がこの場にいる。
それは、帝釈天がしっかりと地上を見守っていたことを示しています。
しっかりと見守っていたから、お釈迦様が亡くなったことに気がつくことができたのです。
これは、まさに、あの言葉を示しているように感じます。
昔は多くの方が口癖のように言っていた・・・・
「お天道様が見ているよ!」
です。

「良いことも悪いことも、すべて誰かに見られているぞ! いつでも誰かに見られているからしっかりやりなさい。」
という意味です。
誰も見ていないと、つい悪いことをしたくなってしまいます。
自習の時間に、先生が見ていなければクラスメイトと話したくなりませんか。
信号待ちをしているときに、誰も見ていないし車も来なければ渡ってしまおうと思いませんか。
トイレから外に出るとき、誰も見ていなければ、ついつい手を洗わずに外に出たいと思いませんか。
私は、ときどきこういった誘惑に負けそうになります。
しかし、誘惑に負けそうになったとき、同時に
「お天道様が見ているよ」
という言葉も思い出します。すると、「あ、悪いことはできないな。」と自分を止めることができます。
いつも坐禅会でお唱えする「白隠禅師 坐禅和讃(はくいんぜんじ ざぜんわさん)」というお経に
・衆生本来仏なり
・衆生の外に仏なし
・衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
とあります。衆生(しゅじょう)とは「すべての命あるもの」という意味です。
ですから、
・私達は誰もが仏様のような素晴らしい心を持っている
・私達以外に、仏様はいない
・それなのに、仏様のような素晴らしい心があるのに、遠くに探しにいくなんてもったいない
と読み取ることができる言葉です。
私が仏!? だったら、お天道様とは?
お天道様って空から私達を見ているんじゃないの?
え!? 白隠禅師は”お天道様が見ているよ”と違うこといっているの!?
そう、感じるかもしれません。
しかし、そうではありません。
涅槃図に描かれているように、帝釈天は山の頂上にいるはずなのに、お釈迦様の近くにいます。
自由自在に動くことができます。
同じように私達の心も自由自在に動きます。
ときには、お天道様のごとく空から私達を客観的に見ることもできます。
そして、ときには自分の内側から自分自身をみることもできます。
白隠禅師はこのことを「私達以外に、仏様はいない」と表現されました。
そしてこの仏様のような尊い心が、自分の内側から自分を見守っているのです。
だからこそ、私達は悪いことなできるはずがないのです。
誰かに見られているときに、堂々と悪いことができますか。
できるはずがありません。
しかし、私達はときどき、自分の中に仏の心があることを忘れてしまします。
だからこそ、「誰にも見られていない」と思い込んで悪いことをしてしまうのです。
どうしたら良いのでしょうか?
いろいろ方法はあります。
坐禅も大切です。
姿勢を良くして、ゆっくり呼吸をする。そうすると心が調います。
心が調ったとき、自然と自分の心が仏の心だと思い出すことができます。
涅槃会のお参りも同じです。涅槃図を前に手を合わせてお参りをしたとき、様々な教えを感じることができます。
心を調える方法は1つではありません。
心を調える素晴らしい習慣が私達の周りにはたくさんあります。
この、素晴らしい習慣をこれからも大切にしていきましょう。
- 関連記事
-
- 昔話に学ぶ 分福茶釜 その3 (2023/03/29)
- 昔話に学ぶ 分福茶釜 その1 (2023/03/27)
- 涅槃図に帝釈天が描かれている理由 【オンライン坐禅会での法話】 (2023/02/14)
- 子供坐禅会 般若心経シリーズ その44 能除一切苦 (2023/02/02)
- 子供坐禅会 般若心経シリーズ その43 是無等等呪 (2023/02/01)