海苔とビル おせんべいと満月 そして 仏と自分
おせんべいが月とビルに見えることがあるそうです。
絵文字は日本発祥の文化だと教えていただきました。
そして同時に、この絵文字が見る人によって違うものに見えると教えていただきました。

これは「せんべい」の絵文字です。
海苔がついた醤油せんべいです。
しかし、せんべいを知らない海外の方がこの絵文字を見ると「ビルの奥にある満月」に見えるそうです。
私達は目の前にあるものを「そのまま見る」ということをしていません。
これまでの生活で身につけた知識というフィルターを通して、物事を見ています。
ですから、せんべいを知っている人にはせんべいに見える絵文字が、せんべいは知らないけど満月やビルを知っている人には、まったく違うものに見えてしまうのです。
「海苔とせんべい」が「ビルと満月」と勘違いされることは好ましいことではありません。
「そのままに見る」ということができないがために、本当は海苔なのにビルだと勘違いし、本当はせんべいなのに満月と勘違いしている姿は、白隠禅師坐禅和讃の
衆生の他に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
という部分に似ているように感じます。
私達以外に仏はありません
私達自身が仏なのに
遠くに仏を探すのはもったいないことです
自分が仏なのに、自分が仏だと気づかずに、遠くに仏を探しに行ってしまうものです。
せんべいを知っていれば絵文字のせんべいがせんべいに見えます。
同じように、自分が仏だと知れば、どんな自分も仏に見えてきます。
「自分が仏だと知る」は知識の問題ではありません。
心の底から実感することです。
実感する方法は様々ですが、禅宗では坐禅を大切にしています。
坐禅は身体を調え、呼吸を調え、心を調える修行です。
姿勢を意識し、ゆったりと呼吸をすることで、自分の心を見つめていく。
すると、自分の心こそ仏の心と知ることができます。
そのことを、白隠禅師という僧侶は
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
と教えてくれています。
坐禅をするときや、白隠禅師坐禅和讃をお唱えするとき、そしておせんべいを食べるときに思い出していただければ嬉しいです。
絵文字は日本発祥の文化だと教えていただきました。
そして同時に、この絵文字が見る人によって違うものに見えると教えていただきました。

これは「せんべい」の絵文字です。
海苔がついた醤油せんべいです。
しかし、せんべいを知らない海外の方がこの絵文字を見ると「ビルの奥にある満月」に見えるそうです。
私達は目の前にあるものを「そのまま見る」ということをしていません。
これまでの生活で身につけた知識というフィルターを通して、物事を見ています。
ですから、せんべいを知っている人にはせんべいに見える絵文字が、せんべいは知らないけど満月やビルを知っている人には、まったく違うものに見えてしまうのです。
「海苔とせんべい」が「ビルと満月」と勘違いされることは好ましいことではありません。
「そのままに見る」ということができないがために、本当は海苔なのにビルだと勘違いし、本当はせんべいなのに満月と勘違いしている姿は、白隠禅師坐禅和讃の
衆生の他に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
という部分に似ているように感じます。
私達以外に仏はありません
私達自身が仏なのに
遠くに仏を探すのはもったいないことです
自分が仏なのに、自分が仏だと気づかずに、遠くに仏を探しに行ってしまうものです。
せんべいを知っていれば絵文字のせんべいがせんべいに見えます。
同じように、自分が仏だと知れば、どんな自分も仏に見えてきます。
「自分が仏だと知る」は知識の問題ではありません。
心の底から実感することです。
実感する方法は様々ですが、禅宗では坐禅を大切にしています。
坐禅は身体を調え、呼吸を調え、心を調える修行です。
姿勢を意識し、ゆったりと呼吸をすることで、自分の心を見つめていく。
すると、自分の心こそ仏の心と知ることができます。
そのことを、白隠禅師という僧侶は
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
と教えてくれています。
坐禅をするときや、白隠禅師坐禅和讃をお唱えするとき、そしておせんべいを食べるときに思い出していただければ嬉しいです。
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