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ラジオ マリンパル 禅なはなし 【令和5年1月の原稿】

600マリンパル

毎月1回ラジオに出演させていただいています。

エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
※マリンパルのホームページはこちらです。
※マリンパルほっとラインの紹介はこちらです。


ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。


私は日常の中で使われている仏教の言葉をテーマに話をさせていただいています。

原稿もなしにしゃべることができる能力がないので、毎回原稿を作成し放送に臨んでいます。

・・・でも、原稿より放送の方が間違いなく面白くなります。

それは、パーソナリティの山下ともちさんが見事にいろいろなことを引き出してくれるからです!!


以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない原稿です・・・


ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!


ラジオを聞いていない方は、インターネットでも聞くことができますので、次回以降はラジオでお楽しみください。


※4,000字ほどありますので、時間と心にゆとりのある方だけがご覧ください



60020221231 竹灯りと除夜の鐘4


マリンパル禅なはなし2023年1月 「月」

~風が吹いても月は動きません~




旧年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、皆さんはどのような年末年始を過ごされたでしょうか。

私は、先月の放送で紹介をしていただいた子供坐禅会と除夜の鐘で年末を迎えました。

その後、お正月は娘が宿題の書き初めをしているところに割り込んで新年の目標を書いたり、お寺の行事に明け暮れて現在にいたります。



私は毎年、新年の目標を書いているのですが、昨年何を書いたかを忘れてしまいます。ですから、今年も目標を書いたら妻に「それ、2年前にも書いたよ。覚えてないの?」と言われてしまいました。


年末年始の行事ですが、コロナ前に比べると子供坐禅会も除夜の鐘も人数は減ってしまいましたが、無事に終えることができました。


東光寺では除夜の鐘の際に、お寺の山(観音山)で増えすぎてしまった竹を切って、その中に灯りを入れて境内を照らすのですが、


そのときに感じたことがあったので今回は「月」という言葉を紹介させていただこうと考えています。





私達が普段から目にしている「月」は、御存じの通り地球の周りを周回している衛星です。夜空に浮かぶ月は毎日様々な形に変化をして古来より私達に様々なことを語りかけてくれています。


私達には様々な姿を見せてくれる月ですが、月の本来の姿が変わることはありません。光の当たりかたなどによって見え方が変わっているだけなのは皆さんご存じの通りです。


この「月」は禅の世界でも頻繁に使われます。


禅語としての「月」、特に満月の姿は、悟りや完全性を表しています。


禅では私達は生まれたときから尊い心(仏心)を持っていると説いています。この心を「月」や「満月」で例えるのです。ですから、禅語の中に「月」という文字があれば、それを「仏」や「仏の心」と読み替えていただくと意味が分かりやすくなります。


「月」が入っている禅語は数多くありますが、今回はその中の一つである


「風吹けども動ぜず天辺の月」(かぜふけども どうぜず てんぺんのつき)


という言葉を紹介させてください。



どんなに激しい強風が地球上で吹き荒れても宇宙にある月は動きません。

風は私達の周囲に吹き荒れる誹謗中傷だけでなく、有頂天になってしまうような出来事、さらに私達の中にある煩悩や妄想をしめしています。そして「月」は私達の中にある尊い心を示しています。ですから、


「どんなに周囲や自分の中で大変な出来事や心の変化があったとしても、自分の根幹にある本当に素晴らしい心が揺れ動くことはない」


ということを教えてくれている言葉です。
実は「月」という言葉は、年末に行った「除夜の鐘と竹灯り」の際に感じた出来事があって紹介をさせていただいています。




実は、この「風吹けども動ぜず天辺の月」は今年の年末に境内を照らした竹灯りで飾った竹にも彫らせてもらいました。


東光寺の竹灯りは除夜の鐘を撞きに来る皆様を竹で作った「竹灯り・竹灯籠(たけとうろう)」でお迎えをするものです。この竹灯り年々変化をしています。


最初は山の竹を切って処分に困っていたところから始まりました。


一緒に作業をしてくれていた方が


「せっかくなら除夜の鐘のときにロウソクを入れて来てくれた人を出迎えよう。」


と言ったのがきっかけです。


最初の年は、切った竹を斜めに切ったものを100個ほど作って中にロウソクを入れました。


その後、斜めに切った竹の数が増えたり、ろうそくが電池式のLED、その後電源式のLEDに変わるなどの変化もありました。


中でも大きな変化は竹を加工するようになったことです。


最初の細工は一緒に作業をしている方の中で、手先が器用な方がジグゾーという工具を使って「東光寺」や「賀正」という文字を竹に彫ったことから始まりました。加工した竹の中に灯りを入れると、その文字が浮かび上がってとてもきれいに見えました。



しかし、この加工はできる人が限られています。そこで、数年前から竹に小さな穴を無数に開けるようになりました。これなら子供坐禅会に参加している小学生でも加工することができるようになりました。



始めの年は4文字の禅語とその意味を竹に彫りました。



そして、昨年は延命十句観音経という短いお経を彫って本堂の前に設置することができました。



お参りに来た方にも大変好評で、これから毎年行っていきたいと昨年は思っていました。





しかし、今年は皆さんご存じの通り9月にあの台風15号がやってきました。東光寺は大きな被害はありませんでしたが、境内にある保育園は床上浸水の被害にあってしまいました。おかげさまで復旧作業は進んでいますが、かなりの労力と時間がとられました。


実は、毎年の竹の準備は10月頃ころ始まります。しかし、その時期は復旧作業に追われてしまい、なかなか時間を取ることができませんでした。


そこで、私は「今年の竹灯りは加工に時間のかかる穴あけ作業はやめて、竹を斜めに切るだけにしよう」と考えました。そこで、一緒に作業をする仲間たちにLINEグループでそのことを伝えました。


そして、いつもより約1ヶ月遅れて竹灯りの作業が始まりました。LINEグループで連絡を取り合いながら、日程を調整して山に行って竹を切ったり、切った竹をお寺に運び込みました。


そして、いよいよ竹を斜めに切り始める日を迎えました。事前にLINEグループで日程調整をおこなって作業をしてきたのでLINEグループに流した「今年は斜め切りだけ」ということが伝わっていると信じている私に1人の参加者が、迷いなくまっすぐに


「ところで、今年は何を彫るの?」


聞いてきたのです。


「いやいや、今年は準備がおそくなっちゃったから斜め切りだけだよ。」


と、私が言うと彼は


「え、せっかくならやればいいのに。大丈夫だよ、やれるよ。今年は水害とか いろいろあったし何かいい言葉はないの?」


というのです。


私は、ハッとさせられました。私は水害があったから「今年は忙しい」を言い訳に作業が簡単な方を選んでいたのです。


しかし彼は、水害があったから何かを彫りたかったのです。


彼は竹灯りを始めたときから一緒に作業をしてくれています。年々良くなっていく竹灯りを知っているのです。だからこそ、「今ここで楽をしてはいけない。できることは精一杯しなきゃいけない!」ということを伝えてくれたのだと思います。


この心がまさに「風吹けども動ぜず天辺の月」です。


私の「楽をしたい、楽をしても許してもらえる」といった言い訳がましい表面上の心はグラグラに動いてしまいました。しかし、彼の「自分達が作り上げてきた良いものを少しでも多くの方に伝えたい」という月のような心は風が吹こうが水害にあおうが動くことはなかったのです。




そこで、今回は水害によって様々なことを感じた年だったこともあり「風吹けども動ぜず天辺の月」という文字を竹に刻ませていただきました。


もちろん、間に合わないと思っていたのは私の思い込みであり、子供から大人まで多くの方が作業をしてくれたので、素晴らしいものが完成をしました。



禅では「月」のような尊い心はどこか遠くにあるのではないと説きます。私達の心そのものが「月」のように尊いのだと説くのです。月が満ち欠けをしたり、雲に覆われて見えなくなってしまうのと同じように、時々見えなくなってしまうだけなのです。どこかに置いてきてしまうわけではありません。


では、どうしたら「月」のような尊い心を見失わずに生活をすることができるのでしょうか。


私は、その方法は1つではないと思っています。まず一つが臨済宗妙心寺派の生活信条です。



私達、臨済宗妙心寺派の檀信徒が日々の生活で大切にする3つの教えが生活信条です。3つしかない教えの一つに


一日一度は静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう。


と、あります。静かに坐るとは坐禅のことです。坐禅をすることで、身体と呼吸が調います。身体と呼吸が調うと自然と心が調います。この調った心が「月」のような心です。




こういうことを言うと「私は忙しいから、毎日坐禅なんてできないよ。」と言われてしまいます。確かに毎日お寺の坐禅会に参加することはとても難しいです。


しかし、坐禅会だけが坐禅ではありません。いつでもどこでも、誰にでもできるのが坐禅です。ふとした瞬間に背中を伸ばしてゆっくりと呼吸をして自分と向き合ってみることも立派な坐禅です。



「それも、難しい。」という方も多いかもしれません。


そういう方にお勧めしている方法があります。


私もついつい坐禅をすることを忘れてしまう人間ですので、この方法を実践しています。それが



「いつも目にする場所に、心が調うものを貼っておく」


という方法です。私はある仏様の写真を仕事部屋の机に置いてあります。その写真を見ると


「仏の心が自分の中にあることを忘れるなよ」


と言われているように感じて、自然と背中が伸びます。


今の時代だからこそ、携帯電話の待ち受け画面を工夫してもいいかもしれません。


やはり、目に入るということは大切です。


書初めを書くときには真剣に紙と向き合います。まさか簡単に何を書いたか忘れるなんて思っていません。しかし、私は1月が過ぎる頃に書初めをはがしてしまいます。


その結果、妻に「同じもの書いてるぞ」と怒られるのです・・・




人はどうしても目にしなければ忘れてしまうものです。


だからこそ、臨済妙心寺派のお寺では先ほど紹介した生活信条を目に付くところに大きく貼ってあります。私も本堂でその言葉を見るたびに、背中を伸ばすようにしています。


そして、先人達が大切な心を「月」に例えたのも同じことではないでしょうか。




何気なく空を見上げたときに「月」が目に飛び込んできます。その「月」を見たときに、本当に大切な心を自分が持っていることを思い出して欲しいという先人達の思いがあったように私は感じています。


どこかで「月」を見たときには、自分の中に素晴らしい心があることを、


そして、「風吹けども動ぜず天辺の月」何があっても、その素晴らしい心は揺れ動かないのだということを思い出していただければ嬉しいです。
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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