オンライン坐禅会 法話 【光陰可惜】
東光寺(静岡市清水区横砂)の境内には袖師保育園があります。
私は、この袖師保育園で勤務をしています。
そんな御縁で、この保育園が管理する「こどもの畑」でサツマイモなどを育てています。
先日もサツマイモの収穫に行ってきました。
これまでに畑で、タマネギ、トマト、ヒマワリ、サツマイモ、ジャガイモなど様々な作物を育ててきました。
そこで、はっきりと自覚したのが
「私には、自分が生きていくうえで必要なご飯を作り出すことができない」
と言うことです。
「サツマイモは簡単に栽培ができます」
という人もいますが、土を耕し、苗を作り、植え、草を取り、収穫をする・・・・
私はそのように感じません。
大変です。間違いなく大変です。そのことだけははっきりと言い切ることができます。

さて、今日紹介をさせていただく禅語は「光陰可惜(こういんおしむべし)」です。
非常に有名な禅語ですので、知っている方もいると思いますが、
時間が過ぎ去っていくのを惜しまなければならない。一瞬たりとも無駄に過ごしてはならないという意味で、修行者に対する戒めの言葉です。
このような説明を受けると
「そうだよね、時間は大事に使わないとね! 効率的に生きていこう!!!」
と、思うかもしれません。しかし
光陰可惜 は 効率的に生きることを薦める言葉でありません。
禅宗では日常のすべてが修行であると説きます。
食事も修行です。
食事のときは食事に集中します。効率化を考えるのなら、食事をしながらテレビを見て情報を入手しながら、誰かと喋って情報交換をした方が良いかもしれません。
しかし、それは禅の修行ではないのです。
ただ、食事と向き合うのです。
他のことには、わき目もふらず。食事と真摯に向き合うことが修行なのです。
一般的に見ると効率的ではないかもしれません。しかし、食事と向き合い「今」を大切にすることで、はっきりと自覚できることがあります。
一口一口をしっかりと噛みしめ、その食事がどのように自分の前に来たのかを受け止めたとき、はっきりと感謝の心が湧き上がってきます。そのことを、
食事の前にお唱えするお経である食事五観文は
一つには、 功の多少を計り彼の来処を量る
【ひとつには こうの たしょうを はかり かの らいしょうを はかる】。
この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。
と表現するのです。
サツマイモひとつ満足に作れないのに、たくさんの食材を使った食事をすることができていることを自覚することは、自分を卑下することではありません。
できないことがあるからこそ、そんな自分を認めて、周囲に生かされていることに感謝しながらも、今できることを精一杯にしていくことが大切だということを光陰可惜(こういんおしむべし)と言う言葉は教えてくれています。
決して効率的に物事を進めていくことを推奨しているのではなく、今を精一杯生きていくことを説いていることを忘れてはいけません。
私は、この袖師保育園で勤務をしています。
そんな御縁で、この保育園が管理する「こどもの畑」でサツマイモなどを育てています。
先日もサツマイモの収穫に行ってきました。
これまでに畑で、タマネギ、トマト、ヒマワリ、サツマイモ、ジャガイモなど様々な作物を育ててきました。
そこで、はっきりと自覚したのが
「私には、自分が生きていくうえで必要なご飯を作り出すことができない」
と言うことです。
「サツマイモは簡単に栽培ができます」
という人もいますが、土を耕し、苗を作り、植え、草を取り、収穫をする・・・・
私はそのように感じません。
大変です。間違いなく大変です。そのことだけははっきりと言い切ることができます。

さて、今日紹介をさせていただく禅語は「光陰可惜(こういんおしむべし)」です。
非常に有名な禅語ですので、知っている方もいると思いますが、
時間が過ぎ去っていくのを惜しまなければならない。一瞬たりとも無駄に過ごしてはならないという意味で、修行者に対する戒めの言葉です。
このような説明を受けると
「そうだよね、時間は大事に使わないとね! 効率的に生きていこう!!!」
と、思うかもしれません。しかし
光陰可惜 は 効率的に生きることを薦める言葉でありません。
禅宗では日常のすべてが修行であると説きます。
食事も修行です。
食事のときは食事に集中します。効率化を考えるのなら、食事をしながらテレビを見て情報を入手しながら、誰かと喋って情報交換をした方が良いかもしれません。
しかし、それは禅の修行ではないのです。
ただ、食事と向き合うのです。
他のことには、わき目もふらず。食事と真摯に向き合うことが修行なのです。
一般的に見ると効率的ではないかもしれません。しかし、食事と向き合い「今」を大切にすることで、はっきりと自覚できることがあります。
一口一口をしっかりと噛みしめ、その食事がどのように自分の前に来たのかを受け止めたとき、はっきりと感謝の心が湧き上がってきます。そのことを、
食事の前にお唱えするお経である食事五観文は
一つには、 功の多少を計り彼の来処を量る
【ひとつには こうの たしょうを はかり かの らいしょうを はかる】。
この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。
と表現するのです。
サツマイモひとつ満足に作れないのに、たくさんの食材を使った食事をすることができていることを自覚することは、自分を卑下することではありません。
できないことがあるからこそ、そんな自分を認めて、周囲に生かされていることに感謝しながらも、今できることを精一杯にしていくことが大切だということを光陰可惜(こういんおしむべし)と言う言葉は教えてくれています。
決して効率的に物事を進めていくことを推奨しているのではなく、今を精一杯生きていくことを説いていることを忘れてはいけません。
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