オンライン坐禅会 法話 【やっぱり あなたは仏様】
先日、興味深いテレビ番組を知りました。
我が家の子供達が見ていたのが面白そうで、つい私も一緒に見入ってしまいました。
その番組は驚くような映像や、つい笑ってしまうような映像を流す番組でした。
そのような番組は多くあるのですが、この番組は少し変わっていました。
一般的なテレビ番組ではその映像を見た芸能人が笑ったり驚いた様子を一緒に映したりします。
しかし、この番組は違いました。
反対に、映像を見ていた芸能人は反応をしてはいけないのです。
びっくりするような映像を見て、ワッと驚けば減点。
つい笑ってしまっても減点されるのです。
ですから、芸能人たちは一生懸命映像を見ても反応しないようにするという番組でした。
せっかくなので、その番組を見ていた私達も芸能人になったつもりで驚かないようにしようと思うんですけども・・・
驚くんですね。声が出ちゃうもんですね。
そこで、どうしたら出ないようになるんだろうなーって考えていたら、予想すると出てこないんですね。
多分この映像はこうなるなと予想して見ていると、声を出さないで見ていられました。
似たようなもので手品というものが世の中にはあります。
種も仕掛けもあるから手品なのですが、それでも驚きます。

例えば手にピンポン玉を持っていて、

それを握ります。
そして、もう一度手を開くと・・・

ピンポン玉が同じ所に出てくれば誰も驚かないですよね。

でもこれで握ったらボールがなくなってしまったり、

または反対の手に出てきたりすれば私たちはすごく驚くものです。
私達は、予想外のことがあると大変驚くものです。
仏教・禅の言葉に
明珠在掌(みょうじゅ たなごころにあり)
いう言葉があります。
明珠は宝石という意味です。光輝く石という意味がありまして、それが仏教のお話の中では「仏様のような素晴らしい心」を意味する言葉として使います。
掌(たなごころ)は私たちの手のひらを意味しています。
ですから、明珠在掌という言葉は宝石のような素晴らしい心は手のひらにあります。と言うことができます。
辞書などで調べると
大切なものは自分の中にあるのだから、遠くに求めるのは愚かなことであるという教え。
とも書いていあります。
つまり、
私達のこの手のひらの上には素晴らしいものがあり、それは、自分の中に大切な心があるんだということであり、仏教ではこのことを様々な言葉で伝えようとしています。
例えば坐禅会でお唱えする白隠禅師坐禅和讃は
衆生本来仏なり(しょうじょう ほんらい ほとけなり)
「生きとし生きるもみんな仏様なんだ」
という言葉で始まります。
私は、よく人前で仏教の話などをさせていただきます。そういったときに嬉しい反応があります。
それは、こういった「明珠在掌」などの言葉を紹介したときに、驚きの声をあげないことです。
人は予想をしていないことを言われたとき、驚きの声をあげるものです。
でも、「あなたが仏様だよ」と言っても驚きの声をあげません。
なぜか・・・
それは、普段の生活の中で、ある程度は予想ができているからではないでしょうか。
はっきりとはわからない。でも、そう言われるとなんとなく納得ができる。
そんな感情なのではないでしょうか。
それをはっきりと感じていくのが坐禅であり、読経であり、供養であす。
そして、日常の中でも挨拶をしたり、食事の前に手を合わせたり、掃除をしたり。
全てのことが、自分が仏であり、周囲の人も仏であると実感することにつながっています。
明珠在掌という言葉を見て、驚きの声をあげなかったのなら、そのことに気付きかけている証拠です。
ぜひ、その心のままに坐禅を続けていきましょう。
我が家の子供達が見ていたのが面白そうで、つい私も一緒に見入ってしまいました。
その番組は驚くような映像や、つい笑ってしまうような映像を流す番組でした。
そのような番組は多くあるのですが、この番組は少し変わっていました。
一般的なテレビ番組ではその映像を見た芸能人が笑ったり驚いた様子を一緒に映したりします。
しかし、この番組は違いました。
反対に、映像を見ていた芸能人は反応をしてはいけないのです。
びっくりするような映像を見て、ワッと驚けば減点。
つい笑ってしまっても減点されるのです。
ですから、芸能人たちは一生懸命映像を見ても反応しないようにするという番組でした。
せっかくなので、その番組を見ていた私達も芸能人になったつもりで驚かないようにしようと思うんですけども・・・
驚くんですね。声が出ちゃうもんですね。
そこで、どうしたら出ないようになるんだろうなーって考えていたら、予想すると出てこないんですね。
多分この映像はこうなるなと予想して見ていると、声を出さないで見ていられました。
似たようなもので手品というものが世の中にはあります。
種も仕掛けもあるから手品なのですが、それでも驚きます。

例えば手にピンポン玉を持っていて、

それを握ります。
そして、もう一度手を開くと・・・

ピンポン玉が同じ所に出てくれば誰も驚かないですよね。

でもこれで握ったらボールがなくなってしまったり、

または反対の手に出てきたりすれば私たちはすごく驚くものです。
私達は、予想外のことがあると大変驚くものです。
仏教・禅の言葉に
明珠在掌(みょうじゅ たなごころにあり)
いう言葉があります。
明珠は宝石という意味です。光輝く石という意味がありまして、それが仏教のお話の中では「仏様のような素晴らしい心」を意味する言葉として使います。
掌(たなごころ)は私たちの手のひらを意味しています。
ですから、明珠在掌という言葉は宝石のような素晴らしい心は手のひらにあります。と言うことができます。
辞書などで調べると
大切なものは自分の中にあるのだから、遠くに求めるのは愚かなことであるという教え。
とも書いていあります。
つまり、
私達のこの手のひらの上には素晴らしいものがあり、それは、自分の中に大切な心があるんだということであり、仏教ではこのことを様々な言葉で伝えようとしています。
例えば坐禅会でお唱えする白隠禅師坐禅和讃は
衆生本来仏なり(しょうじょう ほんらい ほとけなり)
「生きとし生きるもみんな仏様なんだ」
という言葉で始まります。
私は、よく人前で仏教の話などをさせていただきます。そういったときに嬉しい反応があります。
それは、こういった「明珠在掌」などの言葉を紹介したときに、驚きの声をあげないことです。
人は予想をしていないことを言われたとき、驚きの声をあげるものです。
でも、「あなたが仏様だよ」と言っても驚きの声をあげません。
なぜか・・・
それは、普段の生活の中で、ある程度は予想ができているからではないでしょうか。
はっきりとはわからない。でも、そう言われるとなんとなく納得ができる。
そんな感情なのではないでしょうか。
それをはっきりと感じていくのが坐禅であり、読経であり、供養であす。
そして、日常の中でも挨拶をしたり、食事の前に手を合わせたり、掃除をしたり。
全てのことが、自分が仏であり、周囲の人も仏であると実感することにつながっています。
明珠在掌という言葉を見て、驚きの声をあげなかったのなら、そのことに気付きかけている証拠です。
ぜひ、その心のままに坐禅を続けていきましょう。
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