”最初からいない”と”いなくなる”の違い【没蹤跡:もっしょうせき】

中学校の教員をしているときに、先輩に
「あなたが いなくても 生徒が成長をする環境をつくることが“先生”の仕事です。」
と教えていただきました。
先生がいるときだけがんばる生徒はたくさんいます。
この場合、先生がいなくなると生徒はさぼってしまいがちです。
そんな習慣を身につけてしまうと、誰かに見られていないと成長できない人になってしまいます。
だからこそ、先生が突然いなくなっても、生徒が自ら学び続けようとする環境を作ることが教育なのだと教わりました。
禅語に
【没蹤跡:もっしょうせき】
という言葉があります。
蹤跡とは足跡・跡形(あとかた)を意味する言葉であり、没蹤跡は残された跡形が全くないことを意味しています。
平らな水面が波立っても、やがて跡形もなく波が消えて平らな水面に戻るような状態を示す言葉です。
禅ではこの状態を「分別や執着を離れることによって得られる自在無礙の境地」と考えます。
悟りを開いても、悟ったことを見せびらかすこともなく、穏やかに生きる。
「自分は偉くなったのだから記念碑や銅像などを作ってその功績をいつまでも残そう!」
などと考えず、穏やかな心境で生きていくことの大切さを没蹤跡と表現するのです。
だったら、最初から存在しないのも没蹤跡なのでしょうか?
そうではありません。
お釈迦様も多くの弟子たちを導かれましたが、御自分の像などを作り拝むことを固く禁じました。
像にしなくても、弟子たちの中に生きている。
中で生きているのだから、ずっと弟子たちを見守り成長させることができると知っていたのでしょう。
最初から存在しないことが尊いのではなく、誰かのために何かしたことを誇らず生きていくことが大切です。
多くの人を救いながらも、跡形を残さないようにと弟子に伝えたお釈迦様の生き方も没蹤跡であり、先生と呼ばれる人たちが
「あなたが いなくても 生徒が成長をする環境をつくることが“先生”の仕事です。」
と、信じて生きていくならば、それも没蹤跡という尊い生き方です。
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