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子供坐禅会 般若心経シリーズ その16 不増不減

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。

※東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)についてはこちらをご覧ください。
※臨済宗青年僧の会 オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。



600般若心経に学ぶ不増不減1


過冷却・過冷却水【かれいきゃくすい】という言葉を聞いたことがありますか。



数年前からはこの「過冷却水」という名前の付いた清涼飲料水もコンビニなどで販売されていますので、どこかで目にしたり、耳にしたり、または口にしたりしたことがある人もいるかもしれません。


水は本来0度になると氷になると言われています。小学校や中学校の理科の教科書にもそのように書いてあります。


水は0度になれば氷になる。100度になれば水蒸気になります。


しかし必ず0度になった瞬間に水が氷になるのかといえばそうではありません。


それが、過冷却という現象です。


なんと、0度になっても水の性質をとどめた水があるのです。

600般若心経に学ぶ不増不減2


不思議なことですが、液体に振動を与えずゆっくりと0度以下に温度を下げていくと、水は氷り始めるタイミングを見失います。そのまま温度だけがマイナス4度ぐらいまで下がっても凍らないということがあるのです。

この過冷却水という状態の水に、ちょっと振動を与えたりすると・・・


たちまちシャーベット状に凍っていきます。



そのような現象を見ることができるので、小学生や中学生の夏休みの理科の自由研究の題材としてよく使われます。


私はこの過冷却水という現象を見た時に白隠禅師坐禅和讃の中にある「水と氷のごとくにて」という言葉を思い出しました。そして改めて仏教の言葉が、「なるほどその通りだ!」と感じたのです。


600般若心経に学ぶ不増不減3


水は自由自在に動くことができ、形を 自由に変化しどんな器にも入ることができます。


ですから、仏教では水のことを「悩み、苦しみがない心」によく例えます。


それに対せて氷は、動くことができません。もちろん決まった形にしか入りません。


ですから、氷のことを「悩み、苦しむ心」に例えます。




そして、このことを般若心経では「不増不減」と表現しています。




氷が溶ければ水になり、水が氷れば氷になります。


全体の量が変化することはありません。




このことを


「不増不減」

増えることもなければ、減ることもない。


と表現するのです。


600般若心経に学ぶ不増不減4

では、私たちが悩み苦しんだりする時、水の心はだんだんに凍っていくのでしょうか。


そういうこともあるかもしれませんが、そうでないことの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。


多くの場合、何かのきっかけで一気に心が凍りつくという場合が多いのではないでしょうか。


我慢に我慢を重ねて、何かの拍子に、些細なことをきっかけに一気に体や心が動かなくなるということは珍しいことではありません。



些細な出来事というのは、何か特別な出来事ではありません。物を落としたり、石につまづいたり、肩をさわられたり・・・


他人から見たら「え、そんなことで!?」と思うようなことで、一気に心が凍り付いたりするものです。


過冷却の状態にある液体をちょっとだけ振ってみたり、コップに注げばシャーベットになる姿が、普段の何気ないことがきっかけになって一気に凍りつく心の動きとよく似ているように感じます。



私たちの心が凍り付く様子は、冷凍庫の中に入れた水が少しずつ凍っていくのではなく、過冷却水のようなメカニズムに似ていると言えるのではないでしょうか。


少しずつ少しずつストレスを感じそれでも平静を装ってやってきたのに、いつもだったら聞き流すことができる何気ない一言にスイッチが入って心が一気に凍りつく。


ただボールペンを落としただけ、風がさっと拭いた、いつもならすぐに立ち上がれるのにちょっとつまずいてたら立ちあがれなくなるのは、まさにこの状態ではないでしょうか。


温度が0度以上の水はどんなに振っても氷になりません。


しかし、0度以下の水は何かのきっかけで一気に凍ります。



では、自分の心の温度はどうしたら測定することができるのでしょうか。残念ながら測定する機械はありません。そして、やっかいなことに、過冷却水が水のように見えるのと同様に、冷たくなった心も普段の心と見分けることが難しいのです。

では自分の心が過冷却の状態なのか、それとも本当に刺激を加えられたからといって凍ることがない水の状態なのかそれをどのようにしたら見極めることができるのでしょうか。


私は子供坐禅会を地元の小学校の長期休暇(夏・冬・春)に毎日開催しています


これには意味があると思っています。


もちろん1日だけ坐禅を体験することも大切です。しかし毎日坐禅をしていくと見えてくるものがあります。それはが何かと言うと、自分の心の状態です。


体を調え呼吸を調えることで、心が調っていくのが坐禅です。

姿勢を良くして、ゆっくり息をしていくと、自然と心が落ち着いてくるのです。




しかし毎日同じ姿勢、同じ呼吸をしたとしても、その日その日によって頭の中に出てくる感情は違います。


ある時は、姿勢良くゆっくり呼吸をしていると、さっと心が落ち着く。


しかし、別の日は同じように姿勢と呼吸調えようとしても、いつまでたってもザワザワと心が落ち着かないことがあります。



毎日坐禅をすればいま自分の心がどういう状態なのかということを感じることができます。


毎日の習慣になれば、自分では気がつかいない心の温度を自分で気がつくことができるようになってくるように私は考えています。


自分自身の心が過冷却な状態、つまり何かの拍子に凍ってしまうのではないかという状態に気がつけば、何か手立てを考えることができます。



そのように考えると坐禅というものを習慣化するというのはとても大切なことではないのでしょうか。
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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