断捨離って放下著【ほうげじゃく】ですか?

断捨離って放下著【ほうげじゃく】ですか?
と聞かれたことがあります。
放下著【ほうげじゃく】という禅の言葉を紹介したときに質問をしてもらいましたが、その際には断捨離について調べたことがなかったので上手く答えることができませんでした。
断捨離については今でも詳しくないのですが、調べてみると次のよう説明ができそうです。
断捨離とは
・沖正弘が提唱したヨーガの思想。1976年の著書において「断捨離」という語が使用されている。
・作家のやましたひでこが提唱し、商標登録している、不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想。
断捨離の「断」は
新たに手に入りそうな不要なものを断る
断捨離の「捨」は
家にずっとある不要な物を捨てる。
断捨離の「離」は
物への執着から離れる。
という意味があるそうです。
そのために、自分が必要なものを見極めて、不要なものを手放していくのが断捨離とのことです。
ただし、注意点として
「家族を含めて他人のものを勝手に捨てるのは断捨離ではない」
「同居人に対し協力を期待したり説得しないこと」
「同じ居住空間を共有する者は価値観の折り合いをつけていくことが大事」
「断捨離とは自分と自分の所有物に行うものである。」
とも書いてありました。
では、放下著【ほうげじゃく】はどうでしょうか。
放下著【ほうげじゃく】とは
煩悩妄想だけでなく、仏や悟りまでも捨て去り、すべての執着を捨て去る。
ことを意味しており、1000年以上前の問答に出てくる言葉です。
ある修行者が趙州和尚【じょうしゅう おしょう】に質問をします。
「何もかも捨てて、手ぶらのときはどうしたらいいのですか?」
”何もかも捨てて”とは煩悩や執着から離れたことを意味する言葉です。自分は煩悩や執着から離れたと思った修行者が質問をしたのです。
趙州和尚(七七八年~八九七年)は
「放下著」(捨ててしまえ)
と答えます。
修行者は
「捨ててしまえと言われても手ぶらで何も持っていないから、捨てようもない」
と返答します。
すると趙州和尚は
「そいつを担いでゆけ」
(何も持たぬというその意識をも捨ててしまえ)
何も持っていないと思い込んでいる、その心が煩悩や執着の原因となると厳しく指摘しています。
仏教では「捨てる・手放すこと」を大切にします。
宗門安心章(臨済宗)というお経の中にも次のような一節があります。
倫盗【ちゅうとう】するなかれ。吾等【われら】もとより空手【くうしゅ】にして、この世に来り、空手にして又帰る。一紙半銭【いっし はんせん】たりと雖も【いえども】、元来吾等に所有なし。わずかに可得【かとく】の見【けん】あらば、すなわち盗むと示されぬ。
現在の言葉にすると
私たちはもともと何も持たずにこの世に生まれてきたのです。そして生きるご緑が尽きれば何も持たずにあの世に帰って行くのです。紙一枚、お金半銭も、もともと自分のものではありません。少しでも自分のものとして持ちたいという執着心があれば、ただちにそれは盗みとなります。
という意味です。仏教・禅では
何も持っていない、持っていると思うなら、それは盗みだ。
というのです。
そのことを短く表現したのが放下著【ほうげじゃく】なのです。
では、断捨離は放下著【ほうげじゃく】なのでしょうか?
私は違うと思います。
断捨離は「自分のものを捨てる」ことであり、
放下著は「自分のもの」という概念を捨てるのです。
「自分のもの」とは「自我」などと表現される煩悩や執着の原因です。
もちろん、断捨離をすることで煩悩や執着の原因となる「自我」を捨てることができるならば、放下著と同じなのですが、「自分の生活が豊かになる・自分のために」と“自分”がついているようなら
断捨離と放下著は違う意味
と答えるしかないと私は思います。
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