特別なことだけに目を向けていると 経営はなりたたない

一般的に「経営」と言えば会社や事業を行うこと・営むことを意味する言葉です
御存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、経営という言葉は、もともと仏教の言葉です。
「経営」の「経」をよく見てください。
実は、「お経」の「経」です。
もともと「経」は「縦糸」を意味していましたが、それが転じて「経典」を意味するようになりました。
経典というのは、お釈迦様の教えであり、仏教の教えです。
「経営」の「経」は、過去、現在、未来を貫いて変わらない、縦糸のような大切な教えなのです。この大切な教えを営むと書いて「経営」と書きますので、
「経営」とは、大切な教えを縦糸として人生を営むこと、人生を生きていくことを示す言葉なのです。
ですから、「自分自身をどう生かすか」ということを問われる言葉でもあるのです。企業活動の意味で使われだしたのは後になってからだそうです。
なぜ、今月は「経営」という言葉を紹介させていただくかと言いますと、先日の強い雨がきっかけです。私が生活をしている東光寺の付近では1週間ほど前の朝にとても強い雨が降りました。
先日の雨は短時間にものすごく強い雨が降ったために、裏の水路があふれてしまいました。
※その際の記事はこちらです。
東光寺の境内には保育園があり、その保育園の裏の水路が、あまりに強い雨を受け止めきれずにあふれてしまったのです。
その際、普段は保育園の園庭に降った雨が、その水路に流れ込んでいましたが、水路があふれれば園庭内の水も行き場を失い園庭に水が溜まってしまいました。子供を送ってきた保護者ですら、園庭に溜まった水を越えることができず、駐車場から園舎に到着できないような状態でした。
そんな状態でも雨は降り続け、水路は氾濫した状態が続いており、もう少しで教室の中にまで水が入ってきてしまうかもしれないような水位になっていました。
そんなときに、私は何をしていたかと言いますと・・・
スマートフォンで写真の撮影をしていました。
もしも、このまま床上浸水などということになったときには、役所へ報告をしたり、保険を使って修理をしなくてはいけません。その際に、役所や保険屋さんに提出する報告書を作成するための写真が必要になるのです。
ですから、あふれた水路やその影響で水が溜まった場所などを撮影していました。
これは、仏教的な「経営判断」ではなく、社会の中で生きていくための「経営判断」だったように感じています。
不幸中の幸いと言うべきなのかもしれませんが、今回の強い雨はギリギリで止みましたので、保育園が浸水することはありませんでした。
実はあふれてしまった裏の水路は数年に一度は台風や、ゲリラ豪雨などの際にあふれそうになります。
以前も保育園は浸水を経験しているので、今回も雨が降っている間は
「また、浸水するのかもしれない!? なんでここの水路はあふれるんだ!」
と腹立たしい気持ちになりました。
しかし、雨が止むと驚くほどの速さで水路の水位が下がっていきました。
数時間後には驚くほどすっきりとしています。
実は、数年前に大雨が降った際にこの一帯が浸水することがありました。
その時に、多くの方が御尽力をされて、様々な手立てを講じてくれたおかげで、この水路を含めて多くの場所で水の流れが良くなっていたのです。その方法とは、この水路の約1km先の川の底を掘るというものです。
詳しく話をすると長くなるのですが、これまでよりも川底を掘り下げることで、川に流れ込むことができる水の量を増やしてくれていたのです。ですから、今回の大雨で保育園が浸水せずに済んだのです。もしも、1km先の川の底が深くなっていなかったら、もっと多くの水が行き場を失い、保育園の教室の中に入り込んだかもしれません。
雨脚が弱くなって急激に水位が下がった水路を見て、多くの方が地域を守るために尽力して下さっているという、とても大切なことを忘れて
「なんでここの水路はあふれるんだ!」
と言って腹を立てていた自分が恥ずかしいと思いました。
さらに、雨が降った数日後に、川底を削った川の土手を歩いているときに見た桜の木に大切なことを教えてもらった気がしたのです。
その桜の木は決して珍しいものではありません。ただ緑の葉っぱをたくさんつけた桜の木です。私はこの桜の木を見たときにハッとしました。
もしも、この桜の木を3月に見ていたとしたら、私は何をしたでしょうか。そうです、美しいピンクの花を写真に収めようとしたのだと思います。しかし、私は緑の葉に覆われた桜の木の写真を撮ろうとしなかったのです。
このことに気がついたときに自分の未熟さを痛感しました。
一般的な植物は花が咲くときには、葉っぱがあります。葉っぱで光合成をすることで栄養をつくり、その栄養で花を咲かせます。ですから桜の木のように樹全体が花だけに包まれる桜は珍しい存在です。しかし、桜の木は花が勝手に咲くわけではありません。前の年に葉が光合成を行い、作り出された栄養分を木が蓄えて、一気に花を咲かせています。
ですから、花に覆われた桜の木が存在するのは、葉に覆われた桜の木があるからです。
先ほど、「経営」の「経」はもともと縦糸を意味していたと紹介をしました。過去、現在、未来を貫いて変わらない、大切な教えだと紹介をしました。
過去から現在、そして未来へと途切れることなく受け継がれる大切な教えが「経営」の「経」であり、「お経」なのです。
つまり、大切なものを、決して途切れることなく心に持ち続けて生きていくことが「経営」でした。
私はこの「大切なもの」は「ありがたい」と奥底から感じることができる心だと思っています。
つまり、”今、自分が生かされている”ことを実感して「ありがとう」という気持ちを持って生きていくことが「経営」であり、そのように生きていく人が「経営者」なのです。
では、桜の花だけを美しいと感じて写真を撮る姿は「経営者」なのでしょうか。残念ながら違います。(現在)花が咲いた桜の木が美しいと感じて写真を撮るならば、(過去・未来)同じように葉に覆われた桜の木も美しいと感じて写真を撮らなければならないはずです。
あふれた水路の写真を撮ることが「経営者」なのでしょうか。こちらも違います。(現在)困った状態だけを写真にとるのではなく、(過去・未来)雨が降っても降らなくても、そこに存在してくれている水路に感謝し写真を撮っているのならば、水路があふれたときに写真を撮っても「経営者」と名乗ることができたかもしれません。
しかし、私のスマートフォンには、葉でおおわれている桜の木も、通常状態の水路の写真もありません。自分にとって都合の良い写真だけを選んで撮影された写真だけがスマートフォンに収められているのです。このような写真ばかりが収められ、”なにげない日常”に感謝をするような写真を撮影していない私は「経営者」になりきれていないと実感しています。
しかし、だからこそ「経営」という言葉の意味を少しでも多くの方に知ってもらうために、「経営」という言葉を紹介させていただくことで、自分自身への戒めとさせていただきました。
布を織るときには、縦糸と横糸が使われます。当然、縦糸が切れていれば丈夫な布は出来上がりません。縦糸には大切な役割はあるのですが、決して布の表に出てきて目立つことはありません。
見えないけれども、大切な存在なのが縦糸です。横糸をどんなにこだわって丈夫であったり目立つものにしたとしても、縦糸をおろそかにしてしまえば完成した布はたいしたものにはなりません。
同じように私達も、自分自身の中にある縦糸とも言われる経典をおろそかにすることなく営む「経営者」とならなくては、迷い・苦しみの世界へと入り込んでしまいます。
では、どうしたら良いのでしょうか。私はそのキーワードが「日常に感謝する」ことだと思っています。何か特別なことがあったときに「ありがたい」と感じることは難しくありません。しかし、都合が良いときだけ「ありがたい」と感じるのは、ぶつ切りにされた縦糸で布を織るようなものです。
何かあったときだけ、自分に都合の良いことがあったときだけ「ありがたい」と感じるのではなく、過去・現在・未来と途切れることなく「ありがたい」と感じることができれば仏教・禅的な「経営者」となることができます。
私は、光合成を一生懸命行っている、この季節の桜の木を見て、その中に満開の花を見出し、
なにげなく流れている水路を見て、その中に救われている多くの命を見出すような心で日常を過ごしていきたいと思っています。
- 関連記事
-
- ファミコンのリセットボタンについて (2022/06/20)
- 補足 【渓声便是広長舌 山色豈非清浄身】:けいせい すなわち これ こうちょうぜつ さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや (2022/06/19)
- 特別なことだけに目を向けていると 経営はなりたたない (2022/06/15)
- 摩擦係数と禅の言葉 (2022/06/02)
- 日本とアメリカで同じ風が吹く (2022/05/24)