なんで学校へ行かないといけないんでしょう? その3

臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)で話をしたときの原稿です。
この記事は「なんで学校へ行かないといけないんでしょう?」という質問に対して3つの回答を考えました。
今回は、その3つ目です。
1つ目の答えは、憲法や法律から見た答え。
※記事はこちらです。
2つ目の答えは、先日見た映画をヒントにした答え。
※記事はこちらです。
そして3つ目の答えは、仏教・禅の言葉をヒントにした答えです。
これまでの記事で、
「なんで学校へ行かないといけないんでしょう?」
という質問は”思い込み”が生んだ間違いだと紹介をしました。
”義務”は学校へ行くことではなく、大人達がこれからを生きていく子供達に教育を受けさせる義務なのです。
ですから、「行かなければいけない」場所などないのです。
学びたいと思う子供達には学ぶ権利があり、大人には子供を育てようとする義務があるのが義務教育なのです。
では、なぜ「行かなければならない」と思ってしまうのでしょうか。
原因は大きく分けると2つあります。
1つは「義務教育」を間違って解釈すること
そしてもう1つが、学校で嫌な体験をしたり、嫌な体験をしそうだと予想できるからです。
禅の有名な言葉に
無分別
という言葉があります。
一般的には軽率なことを意味する言葉です。
しかし、禅・仏教では“区別や差別をしない”という意味で使います。
つまり、こだわらない・ありのままに受け入れる尊い心を「無分別」と呼ぶのです。
そして、このような尊い心を誰もが持っているとも説いています。
しかし、自分自身や周囲の人も持っているはずのこの尊い心が見えなくなってしまうこともあります。
落ち葉が降り積もったり、雑草が生えてきて、美しい地面が見えなくなってしまうのと同じです。
では、どうしたら良いのでしょうか。
落ち葉を掃除し、雑草を取り除けば美しい地面は再び見るとことができます。
私達の尊い心も同じです。
心の掃除が大切です。
臨済宗には
一日一度は静かに坐って 身体と呼吸と心を調えましょう
という言葉があります。
”静かに坐る”ということは坐禅をすることです。
坐禅も大切な心の掃除なのです。
学校で嫌な体験をしたときには様々な解決方法があります。
相手と話し合う、先生に相談する、大人を頼る、問題と距離をとる、時間が経過することを待つ・・・
しかし、「この問題には、この解決方法がよい」という正解が必ずあるわけではありません。
簡単には解決しない問題も多くあります。
相手がいる問題の場合は特に複雑です。
しかし、自分だけでできることもあります。
それが、”無分別”です。
まず自分自身が区別をしたり差別をやめるのです。
それが無分別の心です。
誰かを変えることはできません。
しかし、自分を変えることができます。
自分自身の心を調えることで、無分別の心になること。
「行かなきゃいけないのか」
という疑問は誰かに答えを求めなくても、自然と自分の中にある答えに気がつくことができるのです。
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