般若心経に学ぶ その3 自由自在に観る
東光寺(静岡市清水区横砂)で開催されている子供坐禅会で話をしたときの原稿です。

目の前の人がハンカチを落としたらどうしますか?
とっさに手がでませんか?
拾った後はどうしますか?
ハンカチを相手に渡しますよね。
そんなときに、相手が「ありがとう」も何も言わずにハンカチを奪うように取って行ってしまったらどうでしょうか?
嫌な気分になりますよね。
私なら「せっかく拾ってやったのに、なんて失礼な奴だ」
と思ってしまいます。
このときの自分自身の心の動きを見てみると、心が観音様になったり、人間になったりしている様子が目に浮かびます。
とっさにハンカチを拾ったときの心が観音様であり、お礼を言わないで立ち去った人に腹をたてた私の心が人間心です。
般若心経というお経は
観自在菩薩 【かんじざいぼさつ】
と始まります。
観自在菩薩とは観音様という意味です。
観音様が修行をして大切なことに気がつきました
と般若心経は始まるのです。
大切なこととは何か、気がついたからこそどうなるのか。
については、後日 話を進めます。
今日、皆さんに知っておいてほしいことは、この観自在菩薩・観音様は誰かということです。
それは、このお経をお唱えしている人が観音様なのです。
つまり、私が観音様で、あなたが観音様、みんな観音様ということです。
もう少し具体的に言うと、
前の人が落としたハンカチを拾う人は観音様です。
しかし、相手が御礼を言わなくて腹が立ってしまったら、もう観音様ではありません。普通の人間です。
何が違うのでしょうか。
それは漢字を見ると少しわかるかもしれません。
私達は普段は親しみを込めて観音様とお呼びしますが、正式には般若心経の冒頭部分に書いてあるように
「観自在菩薩」
と書きます。
観は見るという意味です。自在は自由自在、菩薩は修行を続けながらも人々を救う人を意味しています。
つまり、観自在菩薩とは、
物事を自由自在に観ることができる、人々を救う修行者
という意味になります。
自由自在と言うと、「好き勝手」や「自分の思うがままに」という印象を持つかもしれません。
しかし、この場合の自由自在は意味が違います。
自由自在は「邪魔するものがないから自由自在」という意味で、
自分の都合や、誰かの損得は自由自在を「邪魔するもの」であります。
これらの邪魔を取り除いた状態で「ありのままに物事を見る」ことを自由自在と言います。
ですから、ハンカチを落とした人がいれば、
「あ、ハンカチが落ちた」
と見ることができる心が観音様の心です。
そこに、
「好きな人が落としたハンカチだから大切にしよう」
「拾ってあげれば御礼を言われるだろうから、拾おう」
「嫌いな人が落としたハンカチだから拾うもんか」
などという感情が入れば、心は観音様ではなく 「一般の人」になるわけです。
そうなってはいけない!と般若心経は私達に伝えようとしてくれています。
せっかく、心の奥底に持っている観音様の心を、様々な感情で見えなくなることがあります。
では、どうしたら良いのでしょうか?
様々ありますが、その一つの方法として・・・
観音様の心以外の余分な感情を、息を吐き出すときに一緒に吐きつくすことが大切です。
さぁ、一緒に坐禅をして、息を吐き出しましょう!!

目の前の人がハンカチを落としたらどうしますか?
とっさに手がでませんか?
拾った後はどうしますか?
ハンカチを相手に渡しますよね。
そんなときに、相手が「ありがとう」も何も言わずにハンカチを奪うように取って行ってしまったらどうでしょうか?
嫌な気分になりますよね。
私なら「せっかく拾ってやったのに、なんて失礼な奴だ」
と思ってしまいます。
このときの自分自身の心の動きを見てみると、心が観音様になったり、人間になったりしている様子が目に浮かびます。
とっさにハンカチを拾ったときの心が観音様であり、お礼を言わないで立ち去った人に腹をたてた私の心が人間心です。
般若心経というお経は
観自在菩薩 【かんじざいぼさつ】
と始まります。
観自在菩薩とは観音様という意味です。
観音様が修行をして大切なことに気がつきました
と般若心経は始まるのです。
大切なこととは何か、気がついたからこそどうなるのか。
については、後日 話を進めます。
今日、皆さんに知っておいてほしいことは、この観自在菩薩・観音様は誰かということです。
それは、このお経をお唱えしている人が観音様なのです。
つまり、私が観音様で、あなたが観音様、みんな観音様ということです。
もう少し具体的に言うと、
前の人が落としたハンカチを拾う人は観音様です。
しかし、相手が御礼を言わなくて腹が立ってしまったら、もう観音様ではありません。普通の人間です。
何が違うのでしょうか。
それは漢字を見ると少しわかるかもしれません。
私達は普段は親しみを込めて観音様とお呼びしますが、正式には般若心経の冒頭部分に書いてあるように
「観自在菩薩」
と書きます。
観は見るという意味です。自在は自由自在、菩薩は修行を続けながらも人々を救う人を意味しています。
つまり、観自在菩薩とは、
物事を自由自在に観ることができる、人々を救う修行者
という意味になります。
自由自在と言うと、「好き勝手」や「自分の思うがままに」という印象を持つかもしれません。
しかし、この場合の自由自在は意味が違います。
自由自在は「邪魔するものがないから自由自在」という意味で、
自分の都合や、誰かの損得は自由自在を「邪魔するもの」であります。
これらの邪魔を取り除いた状態で「ありのままに物事を見る」ことを自由自在と言います。
ですから、ハンカチを落とした人がいれば、
「あ、ハンカチが落ちた」
と見ることができる心が観音様の心です。
そこに、
「好きな人が落としたハンカチだから大切にしよう」
「拾ってあげれば御礼を言われるだろうから、拾おう」
「嫌いな人が落としたハンカチだから拾うもんか」
などという感情が入れば、心は観音様ではなく 「一般の人」になるわけです。
そうなってはいけない!と般若心経は私達に伝えようとしてくれています。
せっかく、心の奥底に持っている観音様の心を、様々な感情で見えなくなることがあります。
では、どうしたら良いのでしょうか?
様々ありますが、その一つの方法として・・・
観音様の心以外の余分な感情を、息を吐き出すときに一緒に吐きつくすことが大切です。
さぁ、一緒に坐禅をして、息を吐き出しましょう!!
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