お経の主語って何ですか?

四弘誓願文(しぐせいがんもん)という お経の説明をしていると、
「このお経の主語って何ですか?」
と聞かれました。
私は迷うことなく
「あなたです」
と答えました。
お経は仏教の教えです。
様々なことを私達に伝えてくれています。
ですから、「お経の主語は?」と聞かれれば私は「お経と向き合っている人です。」と答えます。
しかし、質問をしてくださった方は納得をしてくれませんでした。
四弘誓願文(しぐせいがんもん)というお経は、
4つの誓いの言葉です。
法要の最後に唱えることが多いお経ですので、聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。
衆生無辺誓願度
【しゅじょうむへんせいがんど】
衆生の数は限りないけれども、誓って彼岸に渡します
※衆生:生きとし生けるもの全て
煩悩無尽誓願断
【ぼんのうむじんせいがんだん】
煩悩は尽きないけれども、誓って断ち切ります
法門無量誓願学
【ほうもんむりょうせいがんがく】
仏の教えは量りないけれども、誓って学びます
仏道無上誓願成
【ぶつどうむじょうせいがんじょう】
仏道は終わりないけれども、誓って成就します
というお経です。
質問をした方は
「2句から4句の主語が私だと言われるのは納得できる。
でも、最初の1句の主語は私ではない。」
と言うのです。
確かに
「衆生の数は限りないけれども、誓って彼岸に渡します」
もう少し、現代的な言葉にすると、
「いのちあるものは数限りないけれど、全てのものを悟らせます(救います)。」
となるのです。
この説明を聞き、質問をしてくださった方は
煩悩を断ち切るのは私、
教えを学ぶのも私、
修行を続けるのも私、
だから、2句から4句までは、主語が“私”と言われれば納得できる。
でも、私が私を救うのはおかしい。
誰が私を救うのだ?
救うのは、仏であり、僧侶であるあなたではないのか!?
とおっしゃるのです。
このように考える方は多くいらっしゃると思います。
しかし、禅宗(臨済宗)では
白隠禅師坐禅和讃というお経の冒頭に
衆生本来仏なり
【しゅじょう ほんらい ほとけなり】
全てのいのちあるものこそが仏である。
とあるように、誰もが仏だと説くのです。
あなたが仏で、私が仏。
あなたが菩薩で、私が菩薩。
なのです。
あなたが衆生で、私は仏。
ではないのです。
あなたが仏で、私が衆生。
でもありません。
あなたが衆生であり、あなたが仏なのです。
私が衆生であり、私が仏なのです。
そこに境などありません。
衆生と仏、衆生と僧侶
そんな境もありません。
どちらかだけが尊いということはありません。
どちらかだけが偉いということはありません。
どちらかだけが正しいということはありません。
「私が変われば世界が変わる」
という言葉があります。
”私”の中に仏の種があると信じることが、自分を救う1歩となり、世界が変わっていきます。
そのように考えると、やっぱり・・・
お経の主語は、
「お経と向き合っているあなたであり、私自身です。」
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