遺教経に学ぶ 【2-3】

みなさんは坐禅中に何を考えていますか。
私は坐禅に取り組み始めた頃、様々なことを考えてしまっていました。
修行をさせていただいているとき、坐禅中に寝ていれば、当然厳しく叱られます。
まさに”たたき起こされる”という表現が適切です。
私は叩かれることがあまり好きではありません。
ですから、坐禅中に寝ないよう頑張ろうとは思うのです。
思うのですが・・・
思うだけでは睡魔に勝てないことはみなさん御存じの通りです。
そこで、自分なりに考えました。そして
「そうだ、何か考え事をすれば眠くならないぞ!!」
と思いつき、しばらく坐禅をしているときに何か他のことを考えるようにしていました。
すると、多少は眠気が少なくなったように感じました。
しかし、この選択は間違いだったとすぐに気がつきました。
ただ時間を浪費するだけで、何も調わないのです。
「このままではいけないかもしれない・・・」
そんなことを考えているときに、
集中して坐れていない私を見かねて、指導してくださる和尚様(老師)が
「坐禅の呼吸は捨てきることだ。ただ、呼吸に集中しなさい。吐き切ることを怖がってはいけない」
と声をかけてくださいました。
私は、老師に集中できていないことがばれていたことに、気がつき恥ずかしくなりました。
しかし、せっかく教えていただいたのに、実践しないなんてもったいない!
さっそく、姿勢と呼吸に集中してみました。
正確には「吐き切ることに集中してみました」
一息、一息、しっかりと最後まで体の中の空気を出し切ろうとすることは意外と難しいものです。
そのため、集中している間は眠くなることはありませんでした。
そして、吐き切ることに集中していると、
「あ、これでいいんだ。」
と何かを感じ取ることもできました。
このように、捨てきることで、何かに気がつくことができることを遺教経というお経からも学ぶことができます。
遺教経とはお釈迦様が亡くなられる際に説いた最後の教えです。
この冒頭部分に
沙羅双樹の間に於て
【さらそうじゅの あいだに おいて】
将に涅槃に入りたまわんとす。
【まさに ねはんに いりたまわんとす】
是の時中夜寂然として声無し、
【このとき ちゅうや じゃくねんとして こえなし】
諸の弟子の為に
【もろもろの でしのために】
略して法要を説きたもう
【りゃくして ほうようを ときたもう】
と、あります。
少し難しい言葉が続きますが、内容は
沙羅双樹の木の間で
いま涅槃にお入りになろうとされる。
このときあたかも真夜中であたりには物音一つしない。
釈尊は多くの弟子たちのために
仏法のあらましを説いた
と言うものです
「涅槃に入ろうとしている」と聞くと「亡くなろうとしている」
とも考えられますが、本来「涅槃」は
「煩悩の火を吹き消す・吹き消した状態」
を示す言葉です。
ですから、
涅槃に入ろうとしている
は、悟りの境地に達すこと、つまり心が静かに調うことを意味しています。
さらに、この後
真夜中であたりには物音一つしない
と続く言葉も静けさを示しています。
この静けさの中で弟子にお釈迦様は最後の説法をされているのです。
では、この静けさを強調する言葉から何を伝えようとしているのかといえば、
それこそが、坐禅で体験をすることができる
静かにするから聞こえる音がある
と言うことです。
だからこそ、心を調え静かにする息を吐き切ることが大切なのです。
息を吐き出すと共に、自分自身の中にある様々な煩悩や思い込みを捨てることが大切なのです。
私は以前、何も考えない・静かにする といことに漠然とした恐怖を感じてしまっていました。
しかし、そうではないのです。
思い込みを捨て、心を調えることで、初めて聞こえてくるものがある
そのことに気がついてくださいと
このときあたかも真夜中であたりには物音一つしない。釈尊は多くの弟子たちのために仏法のあらましを説きたもう。
という言葉は示しています。
- 関連記事
-
- 遺教経 3-3 不偸盗戒 (2022/03/09)
- 遺教経に学ぶ 【2-3】 (2022/02/17)
- 遺教経に学ぶ 【2-2】 (2022/02/11)
- 遺教経に学ぶ 【2-1】 (2022/02/10)
- 遺教経に学ぶ 【1-4】 (2022/01/27)