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ラジオ マリンパル 禅なはなし 【令和4年2月の原稿】

毎月1回ラジオに出演させていただいています。

エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
※マリンパルのホームページはこちらです。
※マリンパルほっとラインの紹介はこちらです。


ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。


私は日常の中で使われている仏教の言葉をテーマに話をさせていただいています。

原稿もなしにしゃべることができる能力がないので、毎回原稿を作成し放送に臨んでいます。

・・・でも、原稿より放送の方が間違いなく面白くなります。

それは、パーソナリティの山下ともちさんが見事にいろいろなことを引き出してくれるからです!!


以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない原稿です・・・


ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!


ラジオを聞いていない方は、インターネットでも聞くことができますので、次回以降はラジオでお楽しみください。


※4,000字ほどありますので、時間と心にゆとりのある方だけがご覧ください



600屋根裏での戦い2




マリンパル 禅なはなし 2022年2月 「諦める」



早いもので2月になりました。北京での冬のオリンピックも盛り上がっていますね。


私自身はオリンピックが盛り上がっていると感じたときに、


「あ、自分の心にゆとりがある」と気がつきました。


それは、昨年の年末から1月まではこれまでに経験をしたことが無いような忙しさになっていたからです。例えば12月31日の東光寺は例年それなりにバタバタとしています。朝は子供坐禅会があり、これが終わると除夜の鐘の準備に入ります。その間も、年末のお参りに御檀家さんが来てくださるので応対をします。


もちろん除夜の鐘だけでなく新年を迎える準備も同時進行です。そして、日が暮れると境内を照らす竹灯り(竹灯籠)を点火し、お参りに来られる方を迎えます。最後は除夜の鐘を撞いて1日が終わります。


例年でもバタバタして終わっていく1日になのに、今年(昨年)はさらに別の仕事が入りました。それは、本堂の天井裏に登るという仕事です。天井裏で作業をしなくてはいけなくなり、作業着に着替え昼間なのに真っ暗な天井裏で懐中電灯を持って数時間の作業をしていました。


年末年始はそんな形でバタバタとしていましたので、世間で何が起こっているか、なかなか気がつくことはできません。ですから、もしも、あの時期にオリンピックが開催されていても、興味を持って見ることはできなかったと思います。だからこそ、今はオリンピックをやっていることに気がつける、興味を持って見ることができる心のゆとりを感じています。



 さて今日は、そんなバタバタとした年末年始に起こった出来事の中で感じた言葉を紹介します。その言葉は仏教の教えが由来となっている日常で使っている言葉です。


 それが「あきらめる」という言葉です。


 「あきらめる」という言葉は広く一般的に使われています。私の年代で「あきらめる」という言葉を聞くと、安西先生を思い出す人も多いのではないでしょうか。


 有名なバスケットボールマンガ、スラムダンクで主人公が所属するバスケットボール部の顧問の先生が「あきらめたら、そこで試合終了ですよ・・・」というシーンは有名です。


このように「あきらめる」という言葉は一般的には「仕方なく断念する」といった意味として使います。しかし、仏教や禅では違う意味で使います。「あきらめる」は漢字で書くと、「言:ごんべん」に「帝:みかど」と書いて「諦める」と書きます。この「諦める」は仏教・禅では「人生の真理を見定める」という意味があります。


ですから、仏教で「諦める」と書いてあった場合、「断念をする」ということではなく、「あきらかにする(明らかにする)」、「人生をあきらかに見る」と読み取ります。


では、なぜ「心理を見定める」という意味がが「断念する」ことを意味する「あきらめる」になってしまったのでしょうか。諸説ありますが、私が今回調べた中で、一番しっくりきた説明を紹介します。


この説明は鳥取大学の准教授をされている重松恵梨(しげまつ えり)さんが広島大学で文学・英語の研究をされているときに書かれた言葉です。



“「諦める」ために研究する”という文章の中で重松さんは「諦める」を紹介してくださっています。




「諦める」という言葉は、現在では、「自分の願望が叶わず仕方がないと断念する」というネガティブな意味で使われています。この言葉の語源は「明らむ」、つまり、「つまびらかにする、明らかにする」ことだと考えられています。また、「諦(たい)」は仏教で「真理、道理」の意味があるそうです。本来「諦める」とは、「真理、道理を明らかにする過程で、自分の願望が達成できそうにない理由が分かり、納得してそれへの思いを断ち切る」というポジティブなものなのです。何かを「諦める」ために大切なことは、そこに至るまでのプロセスであると私は思っています。


つまり、


修行をしていく中で、自分の求めていたものが私利私欲にまみれたものであったと気がついたからこそ、私利私欲にまみれた欲望を断念できたことを「諦め」と表現していた。しかし、”断念したこと”という部分だけが残り、現在の使い方になったと考えられるのです。



もともと、素晴らしい言葉なのに現在は違う使い方をしている「諦める」という言葉を、今日紹介したくなったのには理由があります。


それは、12月31日に屋根裏に登ったときに見た光景です。お寺の屋根裏ってどうなっているか想像がつきますか?普段はなかなか見るものではありません。お寺で生活をしている私も、用事がない限り登りません。私が初めて天井裏に入ったときに感じたことは、


・思いのほか天井が高くて、充分立って歩くことができる。

・天井板の部分に乗れば天井が抜けてしまうので梁の部分しか歩けないので移動しづらい

・人が入って作業をすることを想定していないので、真っ暗


ということでした。



そもそも、なぜ12月31日に私は天井裏に入らなければならなかったのかと言うと、それはハクビシンという動物が屋根裏に住み着いてしまったようだからです。


ハクビシンというのは、見た目は猫とキツネを混ぜたイタチのようなかわいらしい生き物です。


外で見れば「かわいい!」で済みますが、家の中に入られると非常に厄介です。御存じの方も多いかもしれませんが、彼らはとてもお行儀が良いのです。


お食事中の方には申し訳ないのですが、ハクビシンは自分が住み着いた場所で「トイレの場所」をしっかりと決めるのです。毎回、そこで用を足すのです。毎回毎回・・・


20年程前にも東光寺の屋根裏にハクビシンが住み着き、住み着いていることに気がつかなかった住職が本堂の天井が雨漏りをしていると業者に連絡したら、天井裏から大量のハクビシンの糞が見つかったこともありました。雨漏りだと思っていたシミは、ハクビシンのおしっこだったのです。


もちろん、その際に侵入経路をふさぎ、片付けもしたそうです。


それから20年・・・年末の夜に本堂で私が坐禅をしていたとき、天井裏に誰かがいる気配を感じました。静かに歩く音がするのです・・・最初のうちは気のせいだ、風の音だと自分に言い聞かせていました。しかし、何日も音が聞こえてくるので12月30日の夜、天井を長い棒でつっついて見ました。


すると・・・


バタバタバタ!!!


と何かが走り回る音が聞こえました。ネコか!?ハクビシンか!?と考えながら、天井をつっついていると、今度は「コロコロコロ」と何かが転がる音がする場所があることに気がつきました。「フンだ。・・・ということはハクビシンだ。年が明けたら対策をしなければ・・・」と沈んだ気持ちでその日は寝ました。翌朝、朝の坐禅会の準備のために本堂へ行くと、そこには昨晩と異なる驚きの光景が広がっていました。



お供えしてあった湯飲みが複数倒れ、位牌が倒れ、香炉が傾いています。前日に檀家さんがお供えしてくださる鏡餅を飾るために敷いた真っ白な紙には動物の足跡、塔婆にも足跡、人間では絶対に届かない天井板がずれているなど・・・


「年が明けてから対策を」などとは言っていられない状態になっていました。そこで、急遽猫よけの薬をホームセンターに買いに行き、その薬と懐中電灯など必要なものを持って12月31日の昼間に天井裏に入りました。人が出入りすることをあまり想定していないので入るのも簡単ではありません。苦労して久しぶりに入った本堂の天井裏で見た光景も、驚くべきものでした。




600屋根裏での戦い2



真っ暗なはずの天井裏に光の筋が何本もはっきりと見えるのです。本堂なら端から端まで数秒で歩けますが、天井裏はそうはいきません。10分ほどかけて光の筋が見える部分まで進みました。


600屋根裏での戦い1



すると、そこにはちょうどスマートフォン1つ分の空間(穴)ができていたのです。さらによく見ると、その下に同じ大きさの板が落ちていたのです。

はめてみると見事にはまりました。

原因ははっきりしませんが、突風が吹いた際にでもその板が外れたようです。そして、そこから自由に動物が出入り可能になっていたようです。

天井裏を見渡しても動物がいるように見えなかったので、板をはめた場所の近くに一応猫よけグッズを置きました。最終的には5か所ほど光の筋が見える場所があったのですが、全て同じように近くに板が落ちており、埋めることができました。



その後、今のところ天井から音が聞こえてくることはありません。



今考えると、もしも、天井裏に何かいる気配を感じたときに「気のせいが。気のせいだからしょうがない、あきらめよう」と思って何もしなかったら、再びおしっこの雨漏りに襲われたかもしれません。原因はさておき、天井裏に入ったおかげで原因が「諦らか」になったのです。


天井裏に上がって、光の筋が見えたとき、そして光の元へとたどり着き、原因部分を閉じたときに


「あ、”諦める”ってこういうことかもしれない」と感じました。


人生の中で迷い苦しんだとき、私達は正しい教えを求めます。そしてその教えを知ることができれば、迷いや苦しみの原因を断つことができます。これが諦めるということです。


本堂で嫌な音がしたとき、天井裏に上がりました。そして、そこで光に出会い、穴をふさぎ原因を断つことができたことに似ているよう感じたのです。




最初に申し上げたように、私達は普段「諦める」を良くない言葉として使います。しかし、本来の意味を考えると、とても素晴らしい言葉なのです。


この違いは過程と結果の違いです。今回のことで言えば、過程の違いは「一歩を踏み出すか踏み出さないか」です。天井裏に行かなければ原因は分かりませんでした。同じように人生の悩みや苦しみに出会ったとき「あきらめてしまって試合終了」になるのか、苦しみの原因を明らかにするかの分かれ道は「一歩を踏み出すか踏み出さないか」ではないでしょうか。


では、どこに向かってその一歩を踏み出したら良いのか。もちろん「これが絶対正しい!!これしかない!!」というものはありません。

僧侶をしている私がおすすめできる一歩は坐禅であり、写経、読経であり、供養です。こういうことを言うと「は~でたでた・・・」と思うかもしれません。

しかし、これはとても大切なことです。もちろんそれだけではありません。挨拶、掃除、食事も同じ一歩です。ただし食事は暴飲暴食のことをいっているのではありません。目の前の食事を「ありがたい」とかみしめることも大切な一歩です。こういった尊い習慣は見落としがちですが、すぐ近くにあるものです。


機会がありましたら、身近な習慣と向き合ってみてください。きっと大切なことに気がつく一歩となり、「諦める」きっかけになると思います。
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心の余裕が出来たとのこと、良かったですね!お行儀が良いとはいえ、天井裏掃除も大変だったのでは?
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新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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