遺教経に学ぶ 【2-1】

毎月23日に写経会を開催しています。
写経会では毎回法話をしています。
話しをするときには当然、皆様の方を向いて話をします。
どんな表情で聞いてくださっているかな!?
伝わっているかな!?
話しながらそんなことを考えたりしています。
最近は、それだけでなくもう一つ考えることがあります。
それは、
「あの人なら、どこに坐って話を聞いてくれているのか!?」
ということです。
”あの人”というのは写経会を始めたときから、毎月必ず参加をしてくださっていた女性です。
写経会を楽しみにしてくださっていたのですが、残念ながら病気で亡くなってしまったのです。
では、その方が亡くなってしまったら、その方のことを忘れてしまうものでしょうか。
そうではありません。
写経会のたびに、
背筋がピンと伸びた凛とした姿、
都合がつかなければ家で写経をするまじめさ、
蝶のさなぎを見つけて子供のように喜ぶ無邪気な姿、
新しく手に入れたスマホの新しい機能を楽しそうに使うなど学びつつづける姿
などを思い出します。
さらに、毎月の写経会が始まると自然に
「あの人ならここに座るだろうな」
と考えている自分に気がつきます。
そして、このように、その方との思い出や素晴らしい面を思い出すたびに、まだまだ足元にも及びませんが、
「私も”あの人”のように生きていこう」
と思うのです。
”あの人”は亡くてなってしまいましたが、こうして心は受け継がれていくのだと思います。
お釈迦様は最後に説いた遺教経の中で
応(まさ)に度すべき所の者は、皆已に度し訖って、沙羅双樹の間に於て、将に涅槃に入りたまわんとす。
とおっしゃっています。
救うべきものは全て救い終わり、沙羅双樹の間で涅槃に入ろうとしている。
という一文です。
この中でも
「応(まさ)に度すべき所の者は、皆已に度し訖って」
という一文に私は注目をしています。
救うべきものは全て救い終わった
と言われています。
この一文の続きは遺教経の後半に出てきます。
それが、
まだ救われていない者があるとするなら、その者もやがては必ず救われる因縁を作っておく
という一文です。
昔から「亡き人の 美しい心を 受け継ぐことが 供養である」という言葉があるように、素晴らしい姿や教えは自然と受け継がれていくものです。
そのことをお釈迦様は
救うべきものは全て救い終わった
まだ救われていない者があるとするなら、その者もやがては必ず救われる因縁を作っておく
とおっしゃっているように感じます。
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