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バレンタインを迷惑だと思う心

1月の半ばころから2月3日までは街中に鬼が大量に出回っていました。


しかし、皆さんが豆をまいてくれたおかげでしょうか、2月4日には街中の鬼は姿を消していました。


そして、鬼がいた場所にチョコレートなどの甘いお菓子が現れています。



600バレンタインと供養



そうです、バレンタインと呼ばれるイベントのはじまりです。ここで、感の良い人は


「あ~、お坊さんがバレンタインの話をするときって、バレンタインの次の日15日にお参りをする涅槃会の話をするんでしょ!」


と思うかもしれません。確かに、バレンタインの次の日はお釈迦様の御命日ですので涅槃会の法要をします。しかし、今回は涅槃会の話ではありません。バレンタインの話です。


宗教的な意味合いではなく、現在の日本で行われているバレンタインというイベントは大切な人へお菓子などの贈り物をする日となっています。

我が家にも小学生と中学生の娘がおりまして、この時期になると実に楽しそうに、何を作るか一生懸命に考えて、材料を買い揃え、下手なりにお菓子を作って友達と交換をしています。

一度、我が家で娘の友達が集まってお菓子の交換会が行われたときなど、わーわーキャーキャー、お互いにハグをしたり手をつないだりして大盛り上がりでした。

しかし、このバレンタインは楽しいと思える人ばかりではありません。むしろ迷惑だと感じる人もいます。

部活動に所属していて、その部活にいつから存在するかわからない

「先輩にはバレンタインにチョコを送らなければならない」

などといった謎のルールが存在するところもあります。
※実話です。


部活だけでなく職場でも大して好感を持っていない上司に何か渡さなければならないといった気遣いが発生することも少なくありません。


こうなってくるとバレンタインなんて迷惑だと感じてしまいます。


同じ行事なのに、大切な人のことを想って楽しく準備をする人もいれば、迷惑だと感じて「こんな悪習は私達の代でなくさなければいけない!」と思う人もいるのです。





これは、何もバレンタインだけの話ではありません。お寺で行う供養も同じ状態になっています。


お寺に来られる方が、何気なくおっしゃる言葉に


「私の葬式・法事は簡単にやってくれればいい、やらなくてもいい。迷惑をかけたくないからね」


というものがあります。


そうなんです。今、供養は「迷惑なもの」になってきているのです。





本当に供養とは迷惑なものなのでしょうか。


様々な考え方があると思いますが、私は供養とは何かを考えたときに思い出す言葉があります。


それが「把手共行」【はしゅきょうこう】という禅語です。




800年ほど前の禅の語録である無門関に出てくる言葉であり「手を把って共に行く」という意味があります。


しかし、ただ手をつないで仲良くするということではありません。私達はお釈迦様や達磨大師など誰とでも把手共行、手を把り合って、共に歩くことができる、という意味が込められています。


え!?お釈迦様!? 達磨様!? 仏像に触っていいの? 達磨さんなんて手も足もないけど手をつなげるの?


と思うかもしれません。しかし、そういった物質的に手をつなぐということでもありません。


「把手共行」は「我」とも表現される「自分だけが正しいなどという」という思い込みを捨て去ることを説く言葉でもあります。


「我」を捨てることで、自分の目がお釈迦様や達磨様と同じ目になってものを見ることができる。同じ耳で音を聞くことができる。こういった境地になることを「把手共行」と表現し、手をつないで歩んでいこうと説くのです。



お寺がこれまで大切にしてきた供養は亡くなった方と心の手を取り合って生きていくための尊い習慣です。


しかし、その本質を見失い「やらなきゃいけないからやる」「みんながやっているからやる」といった気持ちになったとき、迷惑な存在になってしまうのです。





バレンタインだけでなく、誰か大好きな人・大切な人と手をつなぎたいと思ったら皆さんは何をしますか。

体が汚れていれば、きれいにしたいと思いませんか。お風呂に入ったり、手を洗ったりしませんか。

大切な人と、心の手をつなぐ供養も同じです。お線香や香を焚いて心身を清めるではありませんか。



大好きな人に何か贈り物をしたいと思いませんか。相手のことを考えて準備をしますよね。

供養も同じです。大切な人が喜ぶもの選ぼうとするではありませんか。


デートをする前に身だしなみに気を使ったり、贈り物を選んだりしているときに「迷惑だ」と思いますか?私は思いません。



供養も同じです。心の手をつなぎ、亡くなった方と一つになっていくことだけに集中することができれば供養は「迷惑」だとは感じることはありません。


そして、誰かと手をつなぐことができたとき私達は喜ぶだけでなくとても安心することができます。

同じように亡くなってしまった大切な方と心の手をつなぐことができたとき、大きな安心を得られるだけでなく、その方と手をつないだまま生きていくことができると実感することができるのです。



もしも、葬儀や法事を「やらなければいけない」という思いが強くなりすぎて「迷惑だ」と感じてしまったときには、ぜひこの「把手共行」という言葉を思い出してください。


私達は誰もが大切な人と手を取って生きていくことができると教えてくれているのです。そして、そのための方法を私達はすでに知っているのです。


それこそが供養の習慣なのです。


亡くなった大切な方のことを一身に想い行動することで、「我」と呼ばれる「自分」捨て去り、亡くなった大切な方と手をつなぐように一つとなることができるのです。


把手共行という言葉と同時にそんな大切な習慣を私達はすでにいただいていることを思い出していただけることを祈念しています。
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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