北枕は縁起が悪いって本当なの!?

北枕は縁起が悪いという人がいます。
亡くなった人を北枕にするからだというのです。
今、坐禅を体験したいと考える人が増えています。そういった方の中に
坐禅=足を組む
と思っている人がいます。
もちろん正解です。
しかし、本当は身体(姿勢)と呼吸と心を調えるのが坐禅です。
では身体を調えるためになぜ足を組むのか?
それは、お釈迦様が足を組んで坐ったからだとも言われています。
お釈迦様が坐禅をして悟りを開かれたので、後世の人達もお釈迦様の追体験をしている。
尊い方と同じことをすることで、悟りを得ようとしているのです。
では北枕は!?
亡くなった方は何で北枕なのでしょうか!?
それは、お釈迦様が亡くなったとき、頭を北に向けられたからなのです。
その後、大切な方が亡くなったときに尊いお釈迦様と同じように送りたいという思い、
そして、大切な方がお釈迦様の追体験ができるようにと北枕にしたのです。
お釈迦様が亡くなる = 北枕 = 大切な方が亡くなった
ではなぜ縁起が悪いと感じる人がいるのでしょうか。
それは、
北枕 = 亡くなった
となってしまったから。
お釈迦様だけでなく「大切な方」が無くなってしまった・・・
さらに
亡くなった = 縁起が悪い(死を忌み嫌う) = 北枕
となり、
北枕 = 縁起が悪い
となってしまったのです。
なぜ、このような誤解が生じてしまったのでしょうか。
それは、「生」と「死」の分別、区別が原因だと私は思います。
区別・分別をすると、どうしても善と悪に分けたくなります。
縁起が良い・縁起が悪いと分けたくなるのです。
「生」と「死」も「生」が良くて「死」が悪いものと分けてしまうからこそ、
「死」= 悪い
となり、
「死」 = 北枕
に「死」= 悪い を代入すると
北枕 = 悪い
となってしまうのです。
禅・坐禅では 区別・分別 離れることを説きます。
「生」と「死」も分けることはありません。
死を考えることは生きることを考えることであるように、二つを分けて考えることはできないことを示す
「生死一如」
という言葉もあります。
結局、縁起が良い・悪いということは自分が決めていることであり、自分に振り回されているだけのことかもしれません。
以前、法話会でご一緒したことがある、臨済宗 建長寺派 東学禅寺(神奈川県小田原市) 住職 笠龍桂和尚は寺報(お寺の新聞)で次のように生死一如を紹介されていました。
素晴らしい言葉ですので引用させていただきます。
私たちは、とかく「生」と「死」を別に考えがちだが、「生死」は表裏一体であり、「生」の中にある「死」を見つめることによって、「生死」の分別を超える境地を自覚するのが、禅の教え「生死一如」である。
だから、生と死を分離して考えることは禅の教えになく、したかって「死を克服」する必要もないのである。
あえて「死を克服する禅の教え」があるとすれば、「生と死」この「過去と未来」を前後際断した、「今の命」を精一杯生きる、ということである。