遺教経に学ぶ 【1-1】

遺教経(ゆいきょうぎょう)に学ぶ 【1-1】
お釈迦様が亡くなる際に遺された最後の教えである遺教経は
釈迦牟尼仏、初に法輪を転じて、阿若憍陳如(あにゃきょぢんにょ)を度し、最後の説法に須跋陀羅(しゅばつだら)を度したもう。
という言葉から始まります。
「度す」とは「渡らせる」や「悟らせる」という意味がある言葉です。
つまり、
お釈迦様は、教えを説くことで阿若憍陳如(あにゃきょぢんにょ)から須跋陀羅(しゅばつだら)までをも悟らせた。
と読むことができます。
阿若憍陳如(あにゃきょぢんにょ)とは、最初の5人の弟子の1人のことですから、阿若憍陳如と書いていますが、実際には5人のお弟子様のことを示しているように私は感じます。
「最初の5人の弟子」とはいったいどのような人物なのでしょうか。
5人はお釈迦様の修行仲間です。
修行仲間と言っても、修行中に出会ったわけではありません。
もともと、お釈迦様は王子様でした。お父さんが王様です。
そのお父さんである王様が、息子であるお釈迦様を守るために派遣した護衛でありました。
しかし、どんなに苦行を続けても悟れないと感じたお釈迦様は、苦行を離れます。
すると、「最初の5人の弟子(まだ弟子でないとき)」は、お釈迦様が苦行から逃げた裏切者だと感じます。
しかし、お釈迦様の 一挙手一投足を見て、再びお釈迦様を信じて弟子入りをされたのです。
私は「最初の5人の弟子」を表す阿若憍陳如(あにゃきょぢんにょ)は、大きく心が揺れ動く私達を表しているように感じます。
そして、阿若憍陳如(あにゃきょぢんにょ)が度された、悟りを開いたように、揺れ動く心を持つ私達の中にも、周囲に流されることがない素晴らしい心があることを示しています。
このことを遺教経では
釈迦牟尼仏、初に法輪を転じて、阿若憍陳如(あにゃきょぢんにょ)を度し、
の一言に込めているように感じます。
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