ラジオ マリンパル 禅なはなし 【令和4年1月の原稿】

毎月1回ラジオに出演させていただいています。
エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
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ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。
私は日常の中で使われている仏教の言葉をテーマに話をさせていただいています。
原稿もなしにしゃべることができる能力がないので、毎回原稿を作成し放送に臨んでいます。
・・・でも、原稿より放送の方が間違いなく面白くなります。
それは、パーソナリティの山下ともちさんが見事にいろいろなことを引き出してくれるからです!!
以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない原稿です・・・
ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!
ラジオを聞いていない方は、インターネットでも聞くことができますので、次回以降はラジオでお楽しみください。
※4,000字ほどありますので、時間と心にゆとりのある方だけがご覧ください
マリンパル 禅なはなし 2022年1月 「無所得」
新しい年を迎えていかがお過ごしでしょうか。
今年の年末年始は、いろいろなことがあって、本当にバタバタしていました。
この年末にあったできごとを話し始めたら止まらなくなりそうなので、今回は一つにしぼって紹介をさせていただきます。
お寺での生活は基本的には「例年通り」というものが多くあります。これは、言い方を変えれば同じことの繰り返しです。ですから、この時期になったらこれを準備して、その後はあれをやって・・・
とすれば基本的には無事に行事が終わっていくはずです。
しかし今年は、というよりも去年からコロナの影響で行事がいつもどおりというわけにはいきません。
いつもと本質的には同じなのですが、内容が少し違うということが多く、準備も異なってきてしまいます。
そんな中で、今月は「無所得」という言葉を紹介したいと思う出来事がありましたので、今回は「無所得」という言葉を紹介させていただきます。
よくお唱えするお経に般若心経というお経があるかと思います。
この般若心経の中に
無所得【むしょとく】
という言葉が出てきます。
一般的に無所得と聞くと、収入がない状態と訳すことができます。
しかし、仏教の言葉としての無所得には違う意味があります。
無所得 を仏教語辞典で調べますと
・主観と客観の区別がないこと。
・執着【しゅうじゃく】がないこと。
と記されています。
執着がない と言われても少し難しく感じます。
しかし、無所得や執着がない状態を表す言葉に
「空手【くうしゅ】にして帰る」
"吾等(われら)もとより空手にして、この世に来り、空手にして又帰る“
と言うものがあります。
私たちは空手【くうしゅ】という何ものをも所有しない無一物でこの世に生まれてきた。そして、ご縁が尽きれば一切の所持品を遺して以前の世界に返っていくこと。
を表しています。
無所得とは、このように「収入がなくこまっている」という状況ではなく「何もかもを手放して、すっきりとしている」状態であり、このことにより「悩みや苦しみといったものからも解放された」姿なのです。
では、仏教や禅が説く無所得にはどうやったらなれるのでしょうか。
それが今回の大般若という法要の中で感じたことでした。
お寺の行事の一つに大般若という行事があります。これは大般若経という600巻あるお経を転読し、全ての方々幸せになることを祈る儀式です。
私が副住職をしている東光寺でも毎年1月7日に大般若を行っています。
普段ですと20人以上のお和尚様、100人以上の檀信徒の皆様でお祈りをさせて頂いています。しかし今はコロナの影響で“密”になっての行事は行いません。お寺にいるものだけで大般若の祈祷をしました。
その後、祈祷をした御札を皆様にお持ち帰りいただくというやり方でやらせて頂いています。
法要の内容は毎年と変わりません。般若心経を3回繰り返してお唱えした後、大般若というお経の本をパラパラと転読をしていきます。

転読とは
1.経典(お経の本)を一冊ずつ手に取り上げ、「大般若波羅蜜多経巻第○○ 唐三蔵法師玄奘奉詔訳」と大きな声で読み上げる。
2.そしてお経の本を、お経を唱えながら扇のようにパラパラとして、最後にまた大きな声で、「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と唱えることです。
唱えると言うよりも心から叫ぶと言った方が良いかもしれません。
降伏一切大魔最勝成就は全ての悪いことがなくなりますようにという願いです。
転読が終わるとまたお経をいくつか読んでいき最後に皆様の幸せを祈る回向をして法要は終わります。
法要自体は30分から1時間ぐらいの法要となっています。
このような法要を密になって行うわけにはいきませんので、先ほど言ったように少人数で行いました。
普段は20人以上の和尚様で行う法要ですが、今回は住職と副住職の二人です。
そして、住職は導師という立場になりますので転読はしません。
と、なると600冊の大般若経を私一人で転読することになるのです。
もちろん、全てをやりきれなくても、決められた時間の中で、精一杯転読をすれば良いのですが、
「せっかくの機会だから600冊を一人で転読してみよう」
と挑戦をすることにしました。
そして迎えた1月7日午前9時に法要が始まりました。例年通りの法要が終わった後、法要中に終わらなかった570冊の転読を始めました。お参りに来てくださる方のことを感じながらひたすらに転読をしていきました。
妻がお参りに来た方への対応をしながら、”わんこそば”のように経本を次々に準備をしてくれたおかげで、約4時間で転読が終わりました。
終わったとき、「終わった~!」という達成感がありましたが、同時に感じたのは「無所得」の難しさでした。
大きな声で「大般若経~~」や「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と大きな声でお唱えしている瞬間には、その世界に没頭できているのですが、それ以外の時に、
「寒いな」、「のどが痛いな」「まだ、〇〇冊目か・・・ まだこんなにある・・・」
など、いろいろなことを考えてしまっていた自分に気づかされました。
無所得と無所得でない状態をいったりきたりしていたのです。
そのことを実感したのときに、数年前にお寺で坐禅を体験した保育園児のことを思い出したのです。
坐禅体験に来たその保育園児は坐禅の休憩中にふざけていて障子に穴を開けてしまいました・・・・
穴を開けた瞬間を私は目撃しましたし、見られたことに気づいた男の子はすぐに
「ごめんなさい。」
と謝りました。私は悩みました。年中組の園児だし、すぐに謝罪したのだから許そうか、それとも叱るのか・・・
私は彼のこれまでの行動も考え、引率してくださっている担任の先生の了解を得て坐禅体験終了後に彼に罰を与えることにしました。
坐禅体験が終わり、障子に穴を開けてしまった園児だけを残し
・君が障子に開けてしまったので、和尚さんは障子を修理しなくてはいけません。
・和尚さんが障子を修理するのに10分ほどかかります。
・和尚さんは10分でみんなが坐禅をした座布団が片づけることができます。
→ 君がみんなの座布団を片づけてください。
と話をしました。障子に穴を開けてしまった男の子はしょんぼりとしながら「うん」とうなずいて作業を始めました。
作業を始めた男の子は一生懸命座布団を片づけます。5歳の彼には重たいであろう座布団を次々に運びます。そして、あっという間に片付けは終了しました。
片付け終わった彼に
「今日、なんで座布団の片づけをしたかわかるかい?」
と質問をしました。
「ふざけていて障子に穴を開けてしまったからです。」
との回答を期待していた私に彼は驚くべき返事をしました。
「楽しいからです!!」
たしかに彼は作業中もニコニコしていました。どうやら本気の答えのようです・・・ 私は
「そっか、お疲れ様でした!」
と答えるのがやっとでした。
彼は罰として座布団の片づけをするように言われたのですが、一生懸命取り組むことにより
無所得の境地に入ったのでしょう。だからこそ「罰」だったはずの片付けが「楽しいこと」になったのです。
そもそも、私が期待した答えが無所得を離れていました。
知恵がついてくると
ふざけていた→障子に穴を開けてしまった→怒られた→罰を与えられた→座布団の片付け
と、いろいろと考えてしまいます。
そして、それが当然のことになってしまいます。
600冊の転読も同じでした。
つい、あれこれ考えてしまうのです。
座布団の片付けを「楽しいから」と言いきった保育園児のように、転読のことだけを考え、転読だけに集中することができていなかったからこそ、他のことを気にしてしまう”良くないゆとり”が生まれてしまったのです。
では、どうしたら座布団の片付けに集中できる保育園児の心境になれるのでしょうか。
まずは、集中できる環境を整えることは大切です。
転読中は目の前に経本があります。
そして、それを手に取って大きな声を出す。この瞬間は集中できています。
他のことは一切考えていません。
しかし、持っていた経本を置いて、別の経本を取るときには、いろいろ考えてしまいます。
これは”良くないゆとり”があるからです。
車を運転し始めたり、自転車に初めて乗れるようになったときには、周囲から話しかけられても「話しかけないで!」と集中できていたのに、慣れてくれば助手席の人と話をしながら運転ができるようになってきます。
でも、これは良いことなのでしょうか。
そうとは言い切れないこともあります。ゆとりがでてきて、油断がうまれ、ついついスマホを触ってしまう。そうすると・・・
同じように、日常の中で集中しきらずにいろいろと考えてしまうと、そこから苦しみが発生してしまうこともあるのです。
さきほど紹介した、園児がこれまでのことを忘れて座布団の片づけを楽しんだのは、車の例えて言うと、初めて車を運転する人が運転に集中している状態かもしれません。
車の運転ができるようになったときに、わざわざ初心者だったころのように運転が下手になる必要はありません。しかし、その頃と同じように運転に集中しようとすることはできます。
そこを子供の姿に学ぶべきだと私は考えています。
そうは言っても、どうしても集中しようとしたときに、余計なことを考えるのは、これまでに様々なことを経験してきた私達にとって当り前のことです。
大切なことは、余計なことを考えたときに集中できていない自分に気がつき、それを掘り下げないことです。
「考えたことを掘り下げる」とは「部屋の片づけをしようとした時に昔の写真が出てきたから、これらの写真を見始めてしまう」ようなものです。これをしてしまうと部屋は片付きません。
部屋の片づけをしようとしたら昔の写真が出てきたとしても、写真は後から楽しもうと、そっと横に置いておき、片づけに集中することが大切です。
禅宗ではこのことを
坐禅をするときには坐禅になりきる
写経をするときには写経と一体となる
お参りをするときには仏様と一つになる
と表現します。
難しいことではありますが、とても大切なことです。
これは、お寺の中のことだけではありません。日常の中で行っていく様々なことに共通する大切なことです。誰かと手をつなぎたいと思えば、持っているものを手放さなければなりません。何かと一つになるとき、余分なものを持っていれば一つになりにくいものです。
そのことを「無所得」とい言葉は教えてくれています。時々「無所得」と言う言葉を耳にすることがあるかと思います。そんな時には、「執着【しゅうじゃく】がないこと」、「何かを手放すことの大切さ」を思い出していただければ嬉しいです。
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