快晴の空と、仏教聖典が説く”空”
数日前にふと空を見ると雲一つない快晴でした。

写真を撮ろうとしても、カメラがピントを合わせるのに苦労するほど何もない空が広がっていました。
このような時には、あえて空以外のものが入るようにします。

すると、入ってきたものにピントが合って、その奥にある空の写真が撮りやすくなります。
そんな撮影の仕方をしている私に、仏教聖典の
さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのはなお迷いだからである。
という言葉が突き刺さります。
「俺は一生懸命坐禅をして悟った!!」と感じているのは悟りではなく迷いだ
と言うのです。
この言葉が出てくる部分には次のような言葉もあります。
私達はどうしても
悟り ←→ 迷い
と二つのものを比較して考えまい、
「悟り」そのものを見ることができず、迷いと比較することで悟りを探そうとしてしまいます。
これは先ほど紹介した「青空を撮影するために、あえて他の被写体を入れるようなもの」です。
便利な方法ではあるのですが、青空そのものを見ること、撮影することができていないのです。
さとりのあるのは、なお迷いだからである。
「悟ったと感じ続けるのは迷いである。悟ったと感じたことすらすてなさい」
という仏教聖典の教えが心に響きます。

写真を撮ろうとしても、カメラがピントを合わせるのに苦労するほど何もない空が広がっていました。
このような時には、あえて空以外のものが入るようにします。

すると、入ってきたものにピントが合って、その奥にある空の写真が撮りやすくなります。
そんな撮影の仕方をしている私に、仏教聖典の
さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのはなお迷いだからである。
という言葉が突き刺さります。
「俺は一生懸命坐禅をして悟った!!」と感じているのは悟りではなく迷いだ
と言うのです。
この言葉が出てくる部分には次のような言葉もあります。
さとりにはきまった形やものがない。
迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。
だから、さとりのあるのはなお、妨げとなる。闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。
まことに、道を修めるものは、さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのは、なお迷いだからである。
私達はどうしても
悟り ←→ 迷い
と二つのものを比較して考えまい、
「悟り」そのものを見ることができず、迷いと比較することで悟りを探そうとしてしまいます。
これは先ほど紹介した「青空を撮影するために、あえて他の被写体を入れるようなもの」です。
便利な方法ではあるのですが、青空そのものを見ること、撮影することができていないのです。
さとりのあるのは、なお迷いだからである。
「悟ったと感じ続けるのは迷いである。悟ったと感じたことすらすてなさい」
という仏教聖典の教えが心に響きます。
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