ラジオ マリンパル 禅なはなし 【12月の原稿】
本日(12月13日)、ラジオに出演させていただきました。

今日は、スタジオの駐車場から見た富士山がとてもきれいでした。

エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
※マリンパルのホームページはこちらです。
※マリンパルほっとラインの紹介はこちらです。
ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。
私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。
私は日常の中で使われている仏教の言葉をテーマに話をさせていただいています。
原稿もなしにしゃべることができる能力がないので、毎回原稿を作成し放送に臨んでいます。
・・・でも、原稿より放送の方が間違いなく面白くなります。
それは、パーソナリティの山下ともちさんが見事にいろいろなことを引き出してくれるからです!!
以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない原稿です・・・
ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!
ラジオを聞いていない方は、インターネットでも聞くことができますので、次回以降はラジオでお楽しみください。
※4,000字ほどありますので、時間と心にゆとりのある方だけがご覧ください
私が今いる東光寺の境内には保育園があり、私はそこの事務職員をしています。先日、この保育園で生活発表会が行われました。生活発表会とは一般的にはお遊戯会とも言われる楽器の演奏、歌や踊りを発表する行事です。私はこのとき記録係を担当しており、写真や動画の撮影をしていました。今年もいつものように撮影をしていたのですが、年長組が、一生懸命歌い楽器を演奏している姿を見たときに自然と涙が流れました。そしてこのときに「無念」という言葉を思い出しました。
「無念」と聞くと、どのような情景をイメージしますか。
一般的には残念無念といったように、残念がったり悔しがったりする情景を思い浮かべるかもしれません。また、私など「無念」という言葉を聞くと幼いころに見ていた時代劇で切り殺された人が「無念じゃ~」と言いながら亡くなっていく映像や、それを真似して友達とチャンバラごっこをしていた光景を思い出します。
私達は普段の生活で、「無念」という言葉を良い意味で使うことはありません。しかし、仏教では「無念」を悪い意味ではなく良い意味・尊い姿を示す言葉として使います。
ですから、保育園の園児の楽器の演奏や歌を聞いたときに感じたのは、残念無念の「無念」ではなく、良い意味での「無念」です。
では、仏教・禅では「無念」をどのようにとらえているのでしょうか。「念」という漢字には、想いという意味もありますし、漢字をよく見ると
「今」という漢字と「心」という漢字が合わさっていますので今の心を示す言葉でもあります。
ですから、強引ではありますが「念 = 心」と置き換えることができます。
つまり、無念 = 無心 と言い換えることができます。
「無念」が「無心」になると急に悪い意味ではなくなるように感じませんか。
皆様ご存じの通り「無心」という言葉は「何も感じない・無関心・無気力」ということではありません。「無心」とは損得や、上手下手、好き嫌いといった分別の心を脱ぎ捨てた純真無垢な計らいの無い尊い心を示す言葉です。
私達、臨済宗の僧侶がいつもお唱えしている白隠禅師坐禅和讃というお経にも
無念の念を念として 【むねんのねん を ねんとして】
謡うも舞うも法の声 【うたうも まうも のりのこえ】
という一節があります。
「念」を「心」に置き換えますと
「無心の心」を「心」として
と捉えることができます。
“「無心の心」を「心」として”つまり、こだわりのない、素晴らしい心になったとき、歌ったり踊ったりすることを含めて全ての行動が仏法を表します。全てが仏様の姿なのです。
と、250年前に今の静岡県沼津で活躍された白隠禅師という和尚様は教えてくれています。
では、なぜ私が保育園児の発表を見て「無念」を感じたのかと言いますと、これには少し前置きがあります。
実は、私は僧侶になる前に中学校の教員をしていた時期がありました。初めて教員になったとき担当したのは2年生でした。様々な事件が毎日のように起こる学校でしたので本当に苦労をしました。翌年も3年生になったその学年を担当させてもらいました。3年生になっても本当に毎日のように事件が起こりました。ドラマ金八先生のような事件が毎日のように起こるのです。ドラマは週に1回1時間の放送ですが、こちらは毎日数時間ドラマのような出来事を体験するので肉体的にも精神的にもヘトヘトになっていました。もちろん、ただただ辛いだけではありません。濃厚な時間を過ごしていたので生徒や職員との関係も濃密になっていきました。
この時、私は3年生の担任だけでなく生徒会も担当をしていました。私が勤務していたこの学校には生徒会が主催する「3年生を送る会」という行事が年度末に行われていました。生徒会が主催するので、私も「3年生を送る会」に携わります。この会では在校生が様々な企画を通して3年生に感謝の気持ちを伝えたり、3年間の写真をスライドにしたりと、3年間を振り返ってもらうものでした。
その中に有志で在校生が手紙を読んだり、歌のプレゼントをしたりする企画もありました。この企画は在校生にも卒業生にも人気のある企画でした。そのため、この企画に出場したい在校生が多くいたのですが、会の時間も決まっていたので希望者全員は出場することができませんでした。そこで毎年、オーディションが行われていました。
私も生徒会の担当と言うことで、そのオーディションに立ち会うことになりました。バンドを組んで人前で演奏したいと出てくるグループや、感謝の気持ちを手紙にしたいと出てくる生徒など、様々なものを見せてもらいました。
このオーディションに参加しているグループの中に合唱部の2年生4人組がいました。この4人組はお世話になった先輩に歌のプレゼントを贈りたいとオーディションに参加していました。実はこの学校の合唱部は顧問の先生の厳しい指導によって徹底的に鍛えられており、全国大会に出場するほどの強豪校です。その中でも実力のある生徒4人がオーディションに参加していたのです。今でもはっきりと覚えているのですが、彼女たちは平原綾香のJupiter(ジュピター)披露してくれました。
あまりにも力強く繊細で素晴らしい歌をすぐ近くで歌われてしまい、その歌を通して様々なことがあった3年生と過ごした2年間を思い出し、私は彼女たちの歌が始まった直後から涙が止まらなくなってしまいました。もう一人3年生の担任をしていた先生が現場にいましたが、その先生も涙腺が崩壊してしまい、私とその先生は前を向くことができませんでした。この時は、他の学年の先生も一緒にいて、この先生は冷静に生徒の歌を聞き進行をしてくれたので無事にオーディションが終わりました。
前置きが長くなってしまって申し訳ないのですが、今回保育園の園児が楽器の演奏をしたり歌を歌っている姿を見て自然と涙が流れたときに、10年以上経過しているこのオーディションのことを思い出したのです。
合唱部の後輩が先輩たちに贈った歌と園児の歌は技術的には雲泥の差があります。上手い歌を聞きたいと思えば、CDなどいくらでも上手な歌を聞くことができます。楽器の演奏でも教えている先生の方がよっぽど上手ですし、ピアノなど習っていない小学生でも保育園児より上手に演奏をすることができたと思います。しかし、私には園児達が必死に取り組むその姿に「無心」・「無念」に感じたのです。
彼らの必死の姿や真剣な目は「誰かを感動させてやろう」とか、「かっこ良く見せてやろう」と言うものではありませんでした。ただ目の
前のことに必死に取り組む「無心」・「無念」の姿だったのです。だからこそ、感動をして涙が流れたのです。
私達は普段の生活の中で、目の前の出来事に自分の「想い」を付け足したり、意味合いを求めたりしながら生活をしています。これは全てが悪いことではありません。
中学生の素晴らし歌声に自分自身の2年間の苦労を重ね合わせて感動の涙を流した10年以上前の私が悪いことをしているのかと言えばそうではありません。
しかし、時として私達が付け加える「想い」が負の感情を生み出すことも珍しくありません。好きな人が微笑んでいればこちらもうれしくなるが、嫌いな人が同じように微笑んでいても「なにあいつ、こっちを見てニヤニヤしている。気分が悪い!」となってしまいます。
“微笑み”という良いものですら、素直に微笑みと見ることが難しいように、私達は普段から「想い」を通して世界を見てしまうことで悩み苦しんでいます。
そんな私が保育園児の演奏で涙を流したという事実に自分で気がついたときに園児達の「無心」とも言われる「無念」の姿には、ものすごい力があるように感じます。もちろん職員ですので園児達との関りはあります。しかし、担任や担任以外の保育士さん達と比べて、私は関りがあまりありません。つまり彼らの演奏に付け加える「想い」は大きくないはずです。しかし、そんな私の心にも響く力が「無念」にはあるのです。
まさに、先ほど紹介した250年前に沼津の地で活躍をされた臨済宗の僧侶である白隠禅師が説いた
無念の念を念として 【むねんのねん を ねんとして】
謡うも舞うも法の声 【うたうも まうも のりのこえ】
なのです。
無念の心、こだわりのない、素晴らしい心になったとき、歌ったり踊ったりすることを含めて全てが仏様の姿であり、その仏の姿に涙が流れたのです。
今回は「無念」という言葉について話をさせていただいていますが、冒頭に時代劇で殺される役者さんが「無念じゃ~」といって亡くなっていくと話をさせてもらいました。これを一般的にとらえると「残念が~、悔しい~」となります。無理やりですが、これを仏教・禅的にとらえると「無念じゃ~」は「亡くなることで、苦しみの世界から離れて、無心になる。」と言っているように感じることもできます。
しかし、これはもったいないことです。仏教や禅は、決して命を落として無心・無念になれとは説いていません。
「生きているうちに、生まれたときから私達には無心・無念という素晴らしい心を持っていることに気がつきなさい」
と説いています。
そして、そのために様々な実践があるのです。そうです、皆様が思い浮かべてくれた坐禅もその一つです。静かに坐って、姿勢を調え、呼吸を調える。そうすることによって徐々に心が調ってくる。何かがなくなるわけではありません。そこにある心を見つめることが無心・無念を実感することです。もちろん坐禅だけでしか、その心を実感することができないわけではありません。頭を剃って修行に行かなければできないことではありません。
読経や作務と言った掃除などの修行だけでなく食事や仕事、趣味などの日常の生活の中にも多くの学びがあります。実践しようとすると難しいことではありますが、他のことを一切捨て去って目の前のことに集中することこそが「無念」です。
園児達が懸命に取り組む姿を見て、改めて”亡くなってから「無念」になる”のではなく、生きているうちに「無念」になるべく精進していかなければならないと感じています。

今日は、スタジオの駐車場から見た富士山がとてもきれいでした。

エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
※マリンパルのホームページはこちらです。
※マリンパルほっとラインの紹介はこちらです。
ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。
私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。
私は日常の中で使われている仏教の言葉をテーマに話をさせていただいています。
原稿もなしにしゃべることができる能力がないので、毎回原稿を作成し放送に臨んでいます。
・・・でも、原稿より放送の方が間違いなく面白くなります。
それは、パーソナリティの山下ともちさんが見事にいろいろなことを引き出してくれるからです!!
以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない原稿です・・・
ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!
ラジオを聞いていない方は、インターネットでも聞くことができますので、次回以降はラジオでお楽しみください。
※4,000字ほどありますので、時間と心にゆとりのある方だけがご覧ください
私が今いる東光寺の境内には保育園があり、私はそこの事務職員をしています。先日、この保育園で生活発表会が行われました。生活発表会とは一般的にはお遊戯会とも言われる楽器の演奏、歌や踊りを発表する行事です。私はこのとき記録係を担当しており、写真や動画の撮影をしていました。今年もいつものように撮影をしていたのですが、年長組が、一生懸命歌い楽器を演奏している姿を見たときに自然と涙が流れました。そしてこのときに「無念」という言葉を思い出しました。
「無念」と聞くと、どのような情景をイメージしますか。
一般的には残念無念といったように、残念がったり悔しがったりする情景を思い浮かべるかもしれません。また、私など「無念」という言葉を聞くと幼いころに見ていた時代劇で切り殺された人が「無念じゃ~」と言いながら亡くなっていく映像や、それを真似して友達とチャンバラごっこをしていた光景を思い出します。
私達は普段の生活で、「無念」という言葉を良い意味で使うことはありません。しかし、仏教では「無念」を悪い意味ではなく良い意味・尊い姿を示す言葉として使います。
ですから、保育園の園児の楽器の演奏や歌を聞いたときに感じたのは、残念無念の「無念」ではなく、良い意味での「無念」です。
では、仏教・禅では「無念」をどのようにとらえているのでしょうか。「念」という漢字には、想いという意味もありますし、漢字をよく見ると
「今」という漢字と「心」という漢字が合わさっていますので今の心を示す言葉でもあります。
ですから、強引ではありますが「念 = 心」と置き換えることができます。
つまり、無念 = 無心 と言い換えることができます。
「無念」が「無心」になると急に悪い意味ではなくなるように感じませんか。
皆様ご存じの通り「無心」という言葉は「何も感じない・無関心・無気力」ということではありません。「無心」とは損得や、上手下手、好き嫌いといった分別の心を脱ぎ捨てた純真無垢な計らいの無い尊い心を示す言葉です。
私達、臨済宗の僧侶がいつもお唱えしている白隠禅師坐禅和讃というお経にも
無念の念を念として 【むねんのねん を ねんとして】
謡うも舞うも法の声 【うたうも まうも のりのこえ】
という一節があります。
「念」を「心」に置き換えますと
「無心の心」を「心」として
と捉えることができます。
“「無心の心」を「心」として”つまり、こだわりのない、素晴らしい心になったとき、歌ったり踊ったりすることを含めて全ての行動が仏法を表します。全てが仏様の姿なのです。
と、250年前に今の静岡県沼津で活躍された白隠禅師という和尚様は教えてくれています。
では、なぜ私が保育園児の発表を見て「無念」を感じたのかと言いますと、これには少し前置きがあります。
実は、私は僧侶になる前に中学校の教員をしていた時期がありました。初めて教員になったとき担当したのは2年生でした。様々な事件が毎日のように起こる学校でしたので本当に苦労をしました。翌年も3年生になったその学年を担当させてもらいました。3年生になっても本当に毎日のように事件が起こりました。ドラマ金八先生のような事件が毎日のように起こるのです。ドラマは週に1回1時間の放送ですが、こちらは毎日数時間ドラマのような出来事を体験するので肉体的にも精神的にもヘトヘトになっていました。もちろん、ただただ辛いだけではありません。濃厚な時間を過ごしていたので生徒や職員との関係も濃密になっていきました。
この時、私は3年生の担任だけでなく生徒会も担当をしていました。私が勤務していたこの学校には生徒会が主催する「3年生を送る会」という行事が年度末に行われていました。生徒会が主催するので、私も「3年生を送る会」に携わります。この会では在校生が様々な企画を通して3年生に感謝の気持ちを伝えたり、3年間の写真をスライドにしたりと、3年間を振り返ってもらうものでした。
その中に有志で在校生が手紙を読んだり、歌のプレゼントをしたりする企画もありました。この企画は在校生にも卒業生にも人気のある企画でした。そのため、この企画に出場したい在校生が多くいたのですが、会の時間も決まっていたので希望者全員は出場することができませんでした。そこで毎年、オーディションが行われていました。
私も生徒会の担当と言うことで、そのオーディションに立ち会うことになりました。バンドを組んで人前で演奏したいと出てくるグループや、感謝の気持ちを手紙にしたいと出てくる生徒など、様々なものを見せてもらいました。
このオーディションに参加しているグループの中に合唱部の2年生4人組がいました。この4人組はお世話になった先輩に歌のプレゼントを贈りたいとオーディションに参加していました。実はこの学校の合唱部は顧問の先生の厳しい指導によって徹底的に鍛えられており、全国大会に出場するほどの強豪校です。その中でも実力のある生徒4人がオーディションに参加していたのです。今でもはっきりと覚えているのですが、彼女たちは平原綾香のJupiter(ジュピター)披露してくれました。
あまりにも力強く繊細で素晴らしい歌をすぐ近くで歌われてしまい、その歌を通して様々なことがあった3年生と過ごした2年間を思い出し、私は彼女たちの歌が始まった直後から涙が止まらなくなってしまいました。もう一人3年生の担任をしていた先生が現場にいましたが、その先生も涙腺が崩壊してしまい、私とその先生は前を向くことができませんでした。この時は、他の学年の先生も一緒にいて、この先生は冷静に生徒の歌を聞き進行をしてくれたので無事にオーディションが終わりました。
前置きが長くなってしまって申し訳ないのですが、今回保育園の園児が楽器の演奏をしたり歌を歌っている姿を見て自然と涙が流れたときに、10年以上経過しているこのオーディションのことを思い出したのです。
合唱部の後輩が先輩たちに贈った歌と園児の歌は技術的には雲泥の差があります。上手い歌を聞きたいと思えば、CDなどいくらでも上手な歌を聞くことができます。楽器の演奏でも教えている先生の方がよっぽど上手ですし、ピアノなど習っていない小学生でも保育園児より上手に演奏をすることができたと思います。しかし、私には園児達が必死に取り組むその姿に「無心」・「無念」に感じたのです。
彼らの必死の姿や真剣な目は「誰かを感動させてやろう」とか、「かっこ良く見せてやろう」と言うものではありませんでした。ただ目の
前のことに必死に取り組む「無心」・「無念」の姿だったのです。だからこそ、感動をして涙が流れたのです。
私達は普段の生活の中で、目の前の出来事に自分の「想い」を付け足したり、意味合いを求めたりしながら生活をしています。これは全てが悪いことではありません。
中学生の素晴らし歌声に自分自身の2年間の苦労を重ね合わせて感動の涙を流した10年以上前の私が悪いことをしているのかと言えばそうではありません。
しかし、時として私達が付け加える「想い」が負の感情を生み出すことも珍しくありません。好きな人が微笑んでいればこちらもうれしくなるが、嫌いな人が同じように微笑んでいても「なにあいつ、こっちを見てニヤニヤしている。気分が悪い!」となってしまいます。
“微笑み”という良いものですら、素直に微笑みと見ることが難しいように、私達は普段から「想い」を通して世界を見てしまうことで悩み苦しんでいます。
そんな私が保育園児の演奏で涙を流したという事実に自分で気がついたときに園児達の「無心」とも言われる「無念」の姿には、ものすごい力があるように感じます。もちろん職員ですので園児達との関りはあります。しかし、担任や担任以外の保育士さん達と比べて、私は関りがあまりありません。つまり彼らの演奏に付け加える「想い」は大きくないはずです。しかし、そんな私の心にも響く力が「無念」にはあるのです。
まさに、先ほど紹介した250年前に沼津の地で活躍をされた臨済宗の僧侶である白隠禅師が説いた
無念の念を念として 【むねんのねん を ねんとして】
謡うも舞うも法の声 【うたうも まうも のりのこえ】
なのです。
無念の心、こだわりのない、素晴らしい心になったとき、歌ったり踊ったりすることを含めて全てが仏様の姿であり、その仏の姿に涙が流れたのです。
今回は「無念」という言葉について話をさせていただいていますが、冒頭に時代劇で殺される役者さんが「無念じゃ~」といって亡くなっていくと話をさせてもらいました。これを一般的にとらえると「残念が~、悔しい~」となります。無理やりですが、これを仏教・禅的にとらえると「無念じゃ~」は「亡くなることで、苦しみの世界から離れて、無心になる。」と言っているように感じることもできます。
しかし、これはもったいないことです。仏教や禅は、決して命を落として無心・無念になれとは説いていません。
「生きているうちに、生まれたときから私達には無心・無念という素晴らしい心を持っていることに気がつきなさい」
と説いています。
そして、そのために様々な実践があるのです。そうです、皆様が思い浮かべてくれた坐禅もその一つです。静かに坐って、姿勢を調え、呼吸を調える。そうすることによって徐々に心が調ってくる。何かがなくなるわけではありません。そこにある心を見つめることが無心・無念を実感することです。もちろん坐禅だけでしか、その心を実感することができないわけではありません。頭を剃って修行に行かなければできないことではありません。
読経や作務と言った掃除などの修行だけでなく食事や仕事、趣味などの日常の生活の中にも多くの学びがあります。実践しようとすると難しいことではありますが、他のことを一切捨て去って目の前のことに集中することこそが「無念」です。
園児達が懸命に取り組む姿を見て、改めて”亡くなってから「無念」になる”のではなく、生きているうちに「無念」になるべく精進していかなければならないと感じています。
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