無念に感動する

先日、東光寺(静岡市清水区横砂)の境内にある保育園の”お遊戯会(生活発表会)”を見ていたときに、一生懸命歌っている園児の姿を見て涙が出そうになりました。
末っ子が5年前にこの保育園を卒園しているので、自分の子供が出ているわけでもありません。
園児たちの歌が上手いわけでもありません。
でも、一生懸命なのです。
ただただ、無心に一生懸命歌っているのです。
その姿に感動をします。
お遊戯をしている園児たちは、見ている職員や保護者を感動させてやろうと考えながら歌っているわけではありません。
目の前のことに一生懸命なのです。
その一生懸命な姿に私達は感動をするのです。
白隠禅師坐禅和讃に
無念の念を念として 【むねんのねん を ねんとして】
謡うも舞うも法の声 【うたうも まうも のりのこえ】
という一節があります。
無念というと「残念無念」の「無念」のことか!!?
と感じるかもしれません。しかし、仏教の世界では「念」は「心」と読みかえることができます。
すると、“「無心の心」を「心」として”となります。無心とはこだわりのない素晴らしい心であり、ありのままに真実の姿を見ることができる心です。
つまり、
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声
は、こだわりのない、素晴らしい心になったとき、歌ったり踊ったりすることを含めて全ての行動が仏法を表します。
と言うことができるのです。
園児達が無念(無心)に取り組む姿に感動するのは、無心でお遊戯に取り組む園児の姿がまさに仏の姿だからかもしれません。