山の草刈りと無明
山の草刈りをしているときに仏教聖典に出てくる「無明」という言葉を思い出しました。

草だらけの場所の草を刈ることで

道が現れました。
この道は私が作ったわけではありません。
専門家にお願いをして作ってもらった道です。
しかし、春から夏にかけて草刈りをしなければ道は草に覆い隠されてしまいます。
せっかく作ってくれた登山道がどこにあるか分からないくらい草だらけにしてしまった私の心が「無明」だったのかもしれないと感じたのです。
仏教聖典に「無明」という言葉が出てきます。
無明とはなんでしょうか。
無明とは無知のことで、 ものの道理をわきまえないことである。
と、仏教聖典に書いてあり、
さらに
正しい智慧のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものととらえられている。
とも書いてあります。
草刈りをした様子で言えば
草だらけのこの状態を見たときに 下の方に見えるコンクリートの道が見えない状態を「無明」と言います。
自分が進むべき道を見失ってしまっているのです。
コンクリートがあると認識できれば その道の周辺にある草を刈っていくことができます。
しかしコンクリートがあることに気がついていないとすれば、そこから動くことができません。
では、仏教が説く
ものの道理をわきまえない、煩悩を煩悩たらしめる原動力
とまで言われる無明とはなんでしょうか。
それは、生まれたときから誰しもが仏様のような尊い心をもっていると説いた教えをを「知らない、否定すること」だと私は考えています。
道があることに気がつけば 道を開くことができる。
気がつかなければ何もできないどころか、間違った方向へと進み、自分だけでなく道具や他者すら傷つけてしまいます。
仏の心があることを知るから、信じることができるから、修行ができる。
修行ができるから 仏の心を体感できる。
草だらけの道を切り開く方法は様々です。
手で抜いていく方法、かまで刈る、草刈り機、薬を使う、火を使う・・・
一人、二人、多数、ロボット・・・
仏の心を体感する方法も様々です。
坐禅、読経、掃除、食事、供養、布施・・・・
一人で、二人で、大勢で・・・
1つだけ正解があるわけではありません。
自分に合った、縁があった方法をぜひ実践してみてください。
道が開けます。

草だらけの場所の草を刈ることで

道が現れました。
この道は私が作ったわけではありません。
専門家にお願いをして作ってもらった道です。
しかし、春から夏にかけて草刈りをしなければ道は草に覆い隠されてしまいます。
せっかく作ってくれた登山道がどこにあるか分からないくらい草だらけにしてしまった私の心が「無明」だったのかもしれないと感じたのです。
仏教聖典に「無明」という言葉が出てきます。
無明とはなんでしょうか。
無明とは無知のことで、 ものの道理をわきまえないことである。
と、仏教聖典に書いてあり、
さらに
正しい智慧のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものととらえられている。
とも書いてあります。
草刈りをした様子で言えば
草だらけのこの状態を見たときに 下の方に見えるコンクリートの道が見えない状態を「無明」と言います。
自分が進むべき道を見失ってしまっているのです。
コンクリートがあると認識できれば その道の周辺にある草を刈っていくことができます。
しかしコンクリートがあることに気がついていないとすれば、そこから動くことができません。
では、仏教が説く
ものの道理をわきまえない、煩悩を煩悩たらしめる原動力
とまで言われる無明とはなんでしょうか。
それは、生まれたときから誰しもが仏様のような尊い心をもっていると説いた教えをを「知らない、否定すること」だと私は考えています。
道があることに気がつけば 道を開くことができる。
気がつかなければ何もできないどころか、間違った方向へと進み、自分だけでなく道具や他者すら傷つけてしまいます。
仏の心があることを知るから、信じることができるから、修行ができる。
修行ができるから 仏の心を体感できる。
草だらけの道を切り開く方法は様々です。
手で抜いていく方法、かまで刈る、草刈り機、薬を使う、火を使う・・・
一人、二人、多数、ロボット・・・
仏の心を体感する方法も様々です。
坐禅、読経、掃除、食事、供養、布施・・・・
一人で、二人で、大勢で・・・
1つだけ正解があるわけではありません。
自分に合った、縁があった方法をぜひ実践してみてください。
道が開けます。
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