オンライン坐禅会 法話 【炊飯器に教えられたこと】

朝晩が少しずつ涼しくなって秋を感じる季節になりました。暑さ寒さも彼岸までということで、お彼岸が過ぎ、15夜を過ぎると、涼しくなってまいります。
坐禅をしていても、少し前までは坐っているだけで汗がダラダラと出ていましたが最近は本当に気持ちよく坐ることができています。
また、この時期になると新米など秋の味覚が出回る時期ですね。ただでさえ美味しい新米を、薪を使ってお釜で炊いたら本当に美味しいご飯になることは間違いないことです。私も秋が深くなってくるとお寺が管理する山の整備のために、木や竹を切りに山に入ります。その際に、切って乾かした木や竹を燃料にして飯盒でご飯を炊くことがあるのですが、やっぱり美味しいですね。
吾心似秋月 碧潭清皎潔
【わがこころは 秋月に似たり 碧潭(へきたん) 清くして 皎潔(こうけつ)たり】
聞いたことがある方も多いかと思います。
『寒山詩』の中でも特に有名な詩の一節です。
河野太通老師の「床の間の禅語」によれば
吾心似秋月
自分の今の心境をたとえるならば、ちょうど秋の月のようにさえざえと清く澄みわたっている。十方世界をくまなく照らして一点の埃も心の中にとどめてはいない。
清浄無垢な心境を秋月にたとえ、
碧潭清くして皎潔
その心の月の光が池の面を照らせば、青く澄みきった池はその底まで何の汚れもなく、輝き映える。
清澄なる心が万物を見れば、すべてのものは清澄なる悟境である。
という意味です。
話は少し変わりますが、オンラインで何かをしようとうするときに必ず出てくる言葉が
「やっぱり直接会うのが一番いいよね」
という言葉です。
その通りの言葉なので、この言葉を否定することはできません。しかし、自分自身が主催者として必死に取り組んできた行事の最後にこの言葉が聞こえてくると、心にモクモクと雲が出てくるような沈んだ気持ちになっています。
しかし、この心の雲をどけるような出来事がありました。私の心の雲を取り除いてくれたのが我が家の炊飯器でした。
我が家の炊飯器はタイマーがついています。
朝ご飯を食べたいと思っている時間にタイマーをセットしておけば、勝手に炊飯器がタイミングよくご飯を炊いて、しかも「ピーピーピー」と音で合図までしてくれます。私は結婚以来、妻との家事分担で朝食は私が、夕食は妻が担当をしておりまして、これまでに数えきれないほど、炊飯器のタイマーを使ってきました。
ある朝のことです。いつものように台所で作業をしていると「カチ」という小さな音が聞こえたのです。普段なら聞き逃してしまうような音でしたが、その日はなぜか鮮明に聞こえました。
それは炊飯器のスイッチが入った音でした。炊飯器はご飯が炊けたとき「ピーピーピー」と大きな音を出して知らせてくれますが、炊きあがる時間から逆算してスイッチが入ります。この時は別に知らせる必要はありませんので電子音は聞こえません。しかし、スイッチは入りますので、その音が聞こえたのです。
「カチ」という音の後には微かに「ゴー」という電熱線が温まっていく音が静かな台所に鳴っていました。この「カチ、ゴー」という音を聞いたとき、ハッとしたのです。
炊飯器にかかわった多くの方の苦労や歴史を「カチ、ゴー」という音に感じたのです。
薪で炊いたご飯がなぜ美味しいのか。様々な理由があると思います。その一つが目に見える苦労です。自分で薪を使ってご飯を炊けば苦労を実感できますし「薪で炊いたご飯です」と言われれば、炊いてくれた人の苦労を容易に想像することができます。だからこそ、その苦労に感謝の気持ちが湧き、ご飯が美味しく感じられます。
しかし、炊飯器でご飯を炊くときにあまり苦労をしません。なぜでしょうか。それは便利な炊飯器を作り上げるために、私達が想像できないほど多くの先人達が苦労をしてくれているからです。先人が苦労の先払いをしてくれているのです。その方々の苦労のおかげで炊飯器を使うときに私達が苦労をせずにすんでいるのです。そのことに気がついていないからこそ、私は
「薪で炊く方が炊飯器よりも苦労する。だから薪の方が美味しい」と思い込んでいたのです。
「カチ、ゴー」という炊飯器の音が苦労を感じていなかった私に、
「お前、便利な道具の裏側にある苦労に何も気づいていないじゃないか!!炊飯器だって薪と同じなんだ。米を美味しく炊くために必死なんだ!」と語りかける炊飯器の声だったのです。
そして、この音を聞いたとき、
「対面が一番だよね」という言葉に対して、「確かに」と思っていた私の浅はかさに気がつきました。もちろん直接人と会うことができることは素晴らしいことです。しかし、それと比較して「オンラインは・・・」と考えていた自分には、オンラインで人と出会うことができるようになった先人たちの苦労・労力が、さらに、必死になってインターネットの世界に足を踏みいれてくださった方のご苦労を感じていなかったのです。
これこそが私がオンラインに対して少しだけ感じていたうしろめたさの原因であり、
他人の苦労を感じることができていなかった自分自身の思い込みが心に雲を作り出していたのです。
「吾心似秋月 碧潭清皎潔」と言う言葉は
私達の心の清らかさは、喩えるべきものがないほどのものだが、ちょうど秋の月のようにさえざえと清く澄みわたっている。と教えてくれています。
この澄み切った心で物事を見渡すことができたなら、どちらが優れていて、どちらかが優れていないなどと分ける必要はなく、どれもが尊いものだと見ていくことができると教えてくれています。
薪で炊いたご飯も素晴らしい存在であり、炊飯器で炊いたご飯も素晴らしい存在。
直接会った人も素晴らしい存在であり、オンラインで会った人も素晴らしい存在なのです。
「カチ、ゴー」という炊飯器の声が私の心の雲を吹き飛ばし、大切なことに気づかせてくれたように感じます。
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