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「坐禅とは自分を照らす鏡」

実は、週末になると悩むことがあります。


それは臨済宗青年僧の会のオンライン坐禅会についてです・・・


私も微力ながらお手伝いをさせていただいている臨済宗青年僧の会のオンライン坐禅会ですが、毎週末に翌週の予定をSNSで発信しています。


私の”微力”はこの週末の情報発信のことです。




もちろん、予定だけを掲示しても良いのですが、せっかくなら坐禅に参加したくなるような、禅の教えに興味を持ってもらえそうな言葉を合わせて掲載をしています。


しかし、最近はどのような言葉を掲載したらよいのか悩むことが増えてきました。


どんな言葉が良いかな!?と考えているときに、




「坐禅とは自分を照らす鏡」



という言葉が目に飛びこんできました。


平成14年に発行した臨済宗青年僧の会の機関紙である「不二」の巻頭ページに掲載された記事ですが、興味のある方は、ぜひお読みください。




600過去の文




 私は自分の修行の師匠は坐禅だと思っています。


私を四十何年間、横道にそらさず、何辺かやってきた挫折を乗り越えてこられたのも、坐禅によって克服できたんだと思っています。

言ってみれば坐禅とは、無から自分を照らす鏡でしょう。




 自分のありのままの姿を見て進むべき正しい道を自分で択んでいくのです。


他人に言われて択べますか。そうはならんですよ。


自分の思う通りにしかならん。思う通りと言ったって勝手に自分の思う通りやってたら、これは修行でも何でもありゃしません。


その自分の思う通りに生きる、そのものを間違いのない姿で映し出すのは無という鏡、坐禅なんです。




 修行の間に挫折がやってきたら、すがりつくのは坐禅以外にはない。だから、坐って、坐って、坐って坐り抜いた。そうして何か正しい生き方なのか、徹底的にやりましな。


 問題によっては半年で見えてきたことも、三年かかったこともありましたが、絶対に志を曲げずに、徹底的にやりました。不思議なことに、禅堂で坐禅を組んでいると、一陣の風がサーツと吹いてきて、パッと見えてくるのです。


しかしいつやってくるのか来ないのかわかりません。しかし「あっ、これだ」そう自分で確信が持てるまではやり抜くんです。


清田保南老大師【平成14年11月発行の不二より】
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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