ラジオ マリンパル 禅なはなし 【6月の原稿】
本日(6月14日)、ラジオに出演させていただきました。

エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。今月は静岡県のコロナウイルス警戒レベルが「特別警戒(警戒レベル5)」の為、電話での出演となりました。
先日、このブログでラジオに出て話をさせていただいたことを紹介し、その際に用意した原稿を掲載しました。
すると、「他の原稿も掲載してみたら!?」というありがたい御言葉をいただきました。
ですから、調子に乗って今月も紹介をさせていただきます。
以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない状態の原稿です・・・
ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!
※4,000字ほどありますので、心にゆとりのある方だけがご覧ください
こんにちは、お世話になります。どうぞよろしくお願いいたします。
今回もこれまでと同様に、どのような話をしたらよいかと悩んでいたときに、印象に残る出来事があったので今回は「分別【ふんべつ・ぶんべつ】」について話をさせていただこうと決めました。
分別(ふんべつ)とは「ごみを分別(ぶんべつ)する」といったときと同じ漢字を書く分別です。
実は、先日お寺で法事をしていたのですが、お参りに来てくれた方の中に2才か3才の子供がいたのです。私がいる東光寺では小さなお子様が来てくれたときにはお菓子を渡す習慣があります。今回もその子供がいることが分かった妻が、たまごボーロとラムネを小さな袋に入れて準備をしてくれました。
東光寺ではこのお菓子の入った袋に、仏教のことを少しでも知ってほしいと言う願いからお寺の簡単な説明や食事に関するお経が書いてある紙を一緒に入れています。ですから、外から見るとどんなお菓子が入っているのが見づらくなっています。
そんなお菓子が入った袋を、法事が終わって本堂から出てきた子供に妻が「はい、どーぞ」と言って渡すとその子供は満面の笑みを浮かべながら「ありがとう!!」と大きな声でご挨拶ができたのです。袋の中に何が入っているのか、渡してくれた人は誰なのか、子供には分かりません。それでも「ありがとう!」と大きな声でしっかりとご挨拶ができたこの子供の姿を見たときに、なんだかとても暖かい気持ちになり、周囲の人達まで笑顔になりました。私はこの笑顔に触れたとき「分別」について話をしたくなったのです。
と言うわけで、今回は「分別」そして、その反対の言葉である「無分別」について話をさせていただきます。
突然で申し訳ないのですが、皆さんは「分別のある人ですね」と言われたいですか。
それともの「無分別な人ですね」と言われたいですか。
一般的には「分別のある人」が誉め言葉であり、「無分別な人」はあまり良い意味では使われていません。ましてや普段の生活では同じ漢字を使う「分別(ぶんべつ)」はやらなくてはいけないことであり、分別せずにゴミを出してしまえば回収もしてもらえません。
やはり、分別ができる方がよさそうです。
では、禅では日常と同じように分別・無分別を使うのでしょうか。実は禅ではとらえ方が違います。
様々な禅語やその意味が書いてある辞書のような本では、禅語の説明の中に難しい表現ですが
「あらゆる分別や常識を離れた自在のはたらき。」
という表現が繰り返し出てきます。少し言い方が変わりますが
「無に徹し切って分別や執着を超越したところから生まれる、自由自在のはたらき」
と書かれていることも多くあります。
つまり、分別を離れこと、無分別になることを大切にしているのです。
一般的には軽率なことを意味する“無分別”を仏教では“区別しない”という意味でとらえます。
区別しないということは「こだわらない・ありのままに受け入れる」言い換えることができ、大切にしているのです。
では、なぜ禅では分別を避けようとするのでしょうか。
私達は普段の生活の中で分別をします。これは大変便利なことで日常生活を送るためには必要不可欠なことです。しかし二つに分けるということは、どうしても「良い・悪い」と分けようとしてしまいます。
そして、そこに主語をつけて「私は正しい、相手が間違っている」と思い違いをしてしまい、この考え方を深めていくと、結果として自分を苦しめることになってしまうのです。
そのように考えると分別は鎧のようなものかもしれません。日常を生きていく上では自分を守るために「私は正しい」という鎧が必要なのかもしれません。しかし、鎧を着たまま全てのことができるのかと言えば、もちろんそうはいきません。
戦いの場では大切な鎧も、リラックスをするときには脱ぎ捨てなくてはいけません。鎧を脱ぎ捨て、ありのままの姿を見せることを禅では無分別と説いているのです。
では禅が説く無分別な姿とはどのような姿なのでしょうか。
もちろん普段使っているような後先を考えないことや思慮のないことではありません。
昔の中国に司馬温公の瓶割り【しばおんこうのかめわり】と言う逸話があります。
政治家であり学者でもあった司馬温公(司馬光)の子供時代の逸話です。
司馬温公が幼少期を過ごした場所には、とても大きく、貴重な水をためるための瓶(かめ)がありました。
その周囲で子供たちが遊んでいると、一人の子供が瓶の中に落ちてしまいました。
このままでは落ちた子供は死んでしまいます。
このとき、迷うことなく近くにあった大きな石で瓶を割って子供を助けたのが幼少期の司馬温公です。どんなに貴重な物でも人の命には代えられない。命の尊さを教える話です。
この話を聞くと、人の命と貴重な品物を比べて人の命を救ったという風にも聞こえますが、大切なことは、迷うことなく瓶を割ることができたことです。
友達が溺れているということに気がついた瞬間に瓶を割って助けたことが尊いのであって、
友達が溺れていることに気がついたときに、
「あ、助けなきゃ! でもどうやって助けよう? そうだ、瓶を割ろう! でも割っていいのかな? 怒られるかな? 弁償できるかな? でも人命には変えられない、 よし割ろう!! えい!!!」
と心の葛藤があって初めて瓶を割っていたのでは、この話は「分別」の話になってしまうのです。
このような回りくどい考えではなく、「溺れた!!えい!!!」と瓶を割ることができた姿こそが「無分別」の姿なのです。
このような例え話しをしてしまうと、なんだか特別なことをするのが「無分別」と感じてしまうかもしれません。もちろん、特別な瞬間に立ち会ったときに無分別を感じることがあるかもしれませんが、私はそれだけではないと考えています。
例えば冒頭で紹介させていただいたお参りに来てくれた子供の姿も無分別な姿です。
何をもらったかはわからない。でも「ありがとう!」と元気いっぱいに言う姿が無分別なのです。
自分と相手という分別がないからこそ、こちらまで笑顔になれる。そんな力が無分別な姿にはあるように感じます。
大人になると、ついつい「中身は何かな。気に入らないものだけど御礼を言わないと後々面倒だ。喜んだふりをすれば相手は喜んでくれる。」などなど色々考えて「ありがとう」と言ってしまいますが、ここには自分と相手と言う分別があり、分別あるもの同士の会話になってしまいます。
子供には「ありがとう」と言うけれど、目上の人には「ありがとうございます」と丁寧に御礼を言う。これも分別です。
また、私が身近なところで無分別を感じたのは、ある和尚様の行動でした。
あるときに、その和尚様と一緒に本堂を歩いていたときに突然、一緒に歩いていた和尚様がすっとしゃがまれたのです。そして次の瞬間、再び立ち会って歩き出しました。この時、何をされたのかと言えば、この和尚様は落ちていたゴミを拾ったのです。その姿が美しかったのでとても印象に残っているのですが、私はこの動作も無分別の姿だと感じています。
私も落ちているゴミに気がつきました。このときの私は
1.ゴミが落ちていると気付く
2.何が落ちているか、どんな種類のゴミか判断する
3.本来ならば誰が片付けるべきゴミかを考える
4.自分が関係しないゴミなら、拾うべきか拾わないかを考える
5.自分に関係するゴミでも、面倒だなと考えてしまう
6.ゴミを拾うことで誰かに評価してもらえるか考える
7.ゴミを拾わないと、誰かに非難されるかもしれなと考える
8.ゴミを拾ってゴミ箱へ
という長い思考・分別をしてゴミを拾おうとしていました。
しかし、ゴミを拾った和尚様にはこのような分別がなかったからこそ、ゴミが落ちていると気付いた瞬間に体が動いたのです。迷いのない姿と言うものは言葉では説明しがたいものですが、本当に美しいものです。だからこそゴミを拾った、その姿が印象に残っているのだと思います。
では、どうしたら禅が説く無分別な行動ができるようになるのでしょうか。
これにはもちろん日々の行いが必要です。例えば良い行動を迷わずに行うことも大切です。
・ゴミに気が付いたら、すぐに拾う。
・バスや電車で席を譲る。
・誰かに何かしてもらったら、ありがとうと言う。
・悪いことをしたと感じたら、ごめんなさい。
・朝、誰かにあったら、おはようございます。
そんな当たり前のことを当たり前にしていくことこそが、仏教が説く無分別な行動ができるようになるための日々の行いだと思います。
始めのうちはどうしても、よく見られたい、これをした方がメリットがある。などといろいろと考え「分別」をしてしまうかもしれません。
それでもかまいません。
何かスポーツを始めようとしたとき、始めは頭を一生懸命使いながら素振りを繰り返すことで基本的な動きを体で覚えます。
体で覚えれば実際にそのスポーツを行ったときに、頭ではなく体が反応するようになっています。
同じ様に、当たり前のことを当たり前に繰り返していくことで、分別を離れて自然と体が動くようになります。それが、差別の原因となるような思い込みや、こだわり、分別を捨て去ることであり、本当に大切な心を見るための第一歩であるように思います。
簡単なようでなかなか実践することが難しいことだと思います。私もなかなか実践しきれません。どうしても頭で考えてしまいます。しかし、それでも実践をしようと心がけています。
ぜひ、「当たり前のことを当たり前にしていく」という難しい実践を一緒にしていきませんか。私自身もどこかで誰かが一緒に挑戦してくれていると考えると、もう少し頑張れそうな気がします。最後は勝手なお願いになってしまいましたが、どうぞよろしくお願いいたします。

エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。今月は静岡県のコロナウイルス警戒レベルが「特別警戒(警戒レベル5)」の為、電話での出演となりました。
先日、このブログでラジオに出て話をさせていただいたことを紹介し、その際に用意した原稿を掲載しました。
すると、「他の原稿も掲載してみたら!?」というありがたい御言葉をいただきました。
ですから、調子に乗って今月も紹介をさせていただきます。
以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない状態の原稿です・・・
ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!
※4,000字ほどありますので、心にゆとりのある方だけがご覧ください
こんにちは、お世話になります。どうぞよろしくお願いいたします。
今回もこれまでと同様に、どのような話をしたらよいかと悩んでいたときに、印象に残る出来事があったので今回は「分別【ふんべつ・ぶんべつ】」について話をさせていただこうと決めました。
分別(ふんべつ)とは「ごみを分別(ぶんべつ)する」といったときと同じ漢字を書く分別です。
実は、先日お寺で法事をしていたのですが、お参りに来てくれた方の中に2才か3才の子供がいたのです。私がいる東光寺では小さなお子様が来てくれたときにはお菓子を渡す習慣があります。今回もその子供がいることが分かった妻が、たまごボーロとラムネを小さな袋に入れて準備をしてくれました。
東光寺ではこのお菓子の入った袋に、仏教のことを少しでも知ってほしいと言う願いからお寺の簡単な説明や食事に関するお経が書いてある紙を一緒に入れています。ですから、外から見るとどんなお菓子が入っているのが見づらくなっています。
そんなお菓子が入った袋を、法事が終わって本堂から出てきた子供に妻が「はい、どーぞ」と言って渡すとその子供は満面の笑みを浮かべながら「ありがとう!!」と大きな声でご挨拶ができたのです。袋の中に何が入っているのか、渡してくれた人は誰なのか、子供には分かりません。それでも「ありがとう!」と大きな声でしっかりとご挨拶ができたこの子供の姿を見たときに、なんだかとても暖かい気持ちになり、周囲の人達まで笑顔になりました。私はこの笑顔に触れたとき「分別」について話をしたくなったのです。
と言うわけで、今回は「分別」そして、その反対の言葉である「無分別」について話をさせていただきます。
突然で申し訳ないのですが、皆さんは「分別のある人ですね」と言われたいですか。
それともの「無分別な人ですね」と言われたいですか。
一般的には「分別のある人」が誉め言葉であり、「無分別な人」はあまり良い意味では使われていません。ましてや普段の生活では同じ漢字を使う「分別(ぶんべつ)」はやらなくてはいけないことであり、分別せずにゴミを出してしまえば回収もしてもらえません。
やはり、分別ができる方がよさそうです。
では、禅では日常と同じように分別・無分別を使うのでしょうか。実は禅ではとらえ方が違います。
様々な禅語やその意味が書いてある辞書のような本では、禅語の説明の中に難しい表現ですが
「あらゆる分別や常識を離れた自在のはたらき。」
という表現が繰り返し出てきます。少し言い方が変わりますが
「無に徹し切って分別や執着を超越したところから生まれる、自由自在のはたらき」
と書かれていることも多くあります。
つまり、分別を離れこと、無分別になることを大切にしているのです。
一般的には軽率なことを意味する“無分別”を仏教では“区別しない”という意味でとらえます。
区別しないということは「こだわらない・ありのままに受け入れる」言い換えることができ、大切にしているのです。
では、なぜ禅では分別を避けようとするのでしょうか。
私達は普段の生活の中で分別をします。これは大変便利なことで日常生活を送るためには必要不可欠なことです。しかし二つに分けるということは、どうしても「良い・悪い」と分けようとしてしまいます。
そして、そこに主語をつけて「私は正しい、相手が間違っている」と思い違いをしてしまい、この考え方を深めていくと、結果として自分を苦しめることになってしまうのです。
そのように考えると分別は鎧のようなものかもしれません。日常を生きていく上では自分を守るために「私は正しい」という鎧が必要なのかもしれません。しかし、鎧を着たまま全てのことができるのかと言えば、もちろんそうはいきません。
戦いの場では大切な鎧も、リラックスをするときには脱ぎ捨てなくてはいけません。鎧を脱ぎ捨て、ありのままの姿を見せることを禅では無分別と説いているのです。
では禅が説く無分別な姿とはどのような姿なのでしょうか。
もちろん普段使っているような後先を考えないことや思慮のないことではありません。
昔の中国に司馬温公の瓶割り【しばおんこうのかめわり】と言う逸話があります。
政治家であり学者でもあった司馬温公(司馬光)の子供時代の逸話です。
司馬温公が幼少期を過ごした場所には、とても大きく、貴重な水をためるための瓶(かめ)がありました。
その周囲で子供たちが遊んでいると、一人の子供が瓶の中に落ちてしまいました。
このままでは落ちた子供は死んでしまいます。
このとき、迷うことなく近くにあった大きな石で瓶を割って子供を助けたのが幼少期の司馬温公です。どんなに貴重な物でも人の命には代えられない。命の尊さを教える話です。
この話を聞くと、人の命と貴重な品物を比べて人の命を救ったという風にも聞こえますが、大切なことは、迷うことなく瓶を割ることができたことです。
友達が溺れているということに気がついた瞬間に瓶を割って助けたことが尊いのであって、
友達が溺れていることに気がついたときに、
「あ、助けなきゃ! でもどうやって助けよう? そうだ、瓶を割ろう! でも割っていいのかな? 怒られるかな? 弁償できるかな? でも人命には変えられない、 よし割ろう!! えい!!!」
と心の葛藤があって初めて瓶を割っていたのでは、この話は「分別」の話になってしまうのです。
このような回りくどい考えではなく、「溺れた!!えい!!!」と瓶を割ることができた姿こそが「無分別」の姿なのです。
このような例え話しをしてしまうと、なんだか特別なことをするのが「無分別」と感じてしまうかもしれません。もちろん、特別な瞬間に立ち会ったときに無分別を感じることがあるかもしれませんが、私はそれだけではないと考えています。
例えば冒頭で紹介させていただいたお参りに来てくれた子供の姿も無分別な姿です。
何をもらったかはわからない。でも「ありがとう!」と元気いっぱいに言う姿が無分別なのです。
自分と相手という分別がないからこそ、こちらまで笑顔になれる。そんな力が無分別な姿にはあるように感じます。
大人になると、ついつい「中身は何かな。気に入らないものだけど御礼を言わないと後々面倒だ。喜んだふりをすれば相手は喜んでくれる。」などなど色々考えて「ありがとう」と言ってしまいますが、ここには自分と相手と言う分別があり、分別あるもの同士の会話になってしまいます。
子供には「ありがとう」と言うけれど、目上の人には「ありがとうございます」と丁寧に御礼を言う。これも分別です。
また、私が身近なところで無分別を感じたのは、ある和尚様の行動でした。
あるときに、その和尚様と一緒に本堂を歩いていたときに突然、一緒に歩いていた和尚様がすっとしゃがまれたのです。そして次の瞬間、再び立ち会って歩き出しました。この時、何をされたのかと言えば、この和尚様は落ちていたゴミを拾ったのです。その姿が美しかったのでとても印象に残っているのですが、私はこの動作も無分別の姿だと感じています。
私も落ちているゴミに気がつきました。このときの私は
1.ゴミが落ちていると気付く
2.何が落ちているか、どんな種類のゴミか判断する
3.本来ならば誰が片付けるべきゴミかを考える
4.自分が関係しないゴミなら、拾うべきか拾わないかを考える
5.自分に関係するゴミでも、面倒だなと考えてしまう
6.ゴミを拾うことで誰かに評価してもらえるか考える
7.ゴミを拾わないと、誰かに非難されるかもしれなと考える
8.ゴミを拾ってゴミ箱へ
という長い思考・分別をしてゴミを拾おうとしていました。
しかし、ゴミを拾った和尚様にはこのような分別がなかったからこそ、ゴミが落ちていると気付いた瞬間に体が動いたのです。迷いのない姿と言うものは言葉では説明しがたいものですが、本当に美しいものです。だからこそゴミを拾った、その姿が印象に残っているのだと思います。
では、どうしたら禅が説く無分別な行動ができるようになるのでしょうか。
これにはもちろん日々の行いが必要です。例えば良い行動を迷わずに行うことも大切です。
・ゴミに気が付いたら、すぐに拾う。
・バスや電車で席を譲る。
・誰かに何かしてもらったら、ありがとうと言う。
・悪いことをしたと感じたら、ごめんなさい。
・朝、誰かにあったら、おはようございます。
そんな当たり前のことを当たり前にしていくことこそが、仏教が説く無分別な行動ができるようになるための日々の行いだと思います。
始めのうちはどうしても、よく見られたい、これをした方がメリットがある。などといろいろと考え「分別」をしてしまうかもしれません。
それでもかまいません。
何かスポーツを始めようとしたとき、始めは頭を一生懸命使いながら素振りを繰り返すことで基本的な動きを体で覚えます。
体で覚えれば実際にそのスポーツを行ったときに、頭ではなく体が反応するようになっています。
同じ様に、当たり前のことを当たり前に繰り返していくことで、分別を離れて自然と体が動くようになります。それが、差別の原因となるような思い込みや、こだわり、分別を捨て去ることであり、本当に大切な心を見るための第一歩であるように思います。
簡単なようでなかなか実践することが難しいことだと思います。私もなかなか実践しきれません。どうしても頭で考えてしまいます。しかし、それでも実践をしようと心がけています。
ぜひ、「当たり前のことを当たり前にしていく」という難しい実践を一緒にしていきませんか。私自身もどこかで誰かが一緒に挑戦してくれていると考えると、もう少し頑張れそうな気がします。最後は勝手なお願いになってしまいましたが、どうぞよろしくお願いいたします。
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