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自分で行う坐禅と 誰かと坐る坐禅会の違いについて

「坐禅って一人でもできるじゃん!なんで坐禅会に参加する必要があるの!?」


坐禅会に参加しながらも、このような疑問を感じたことがある方もいるのではないでしょうか。


私も、そう考えていたことがあります。



600オンライン坐禅会20210607

臨済宗青年僧の会でオンライン坐禅会を開催するようになって1年以上が経ちました。


多くの方に参加をいただいているオンライン坐禅会ですが、私もこの1年間で多くの坐禅会を開催するだけでなく、それ以上に多くの坐禅会に参加させていただきました。



考えてみると、これまで他のお寺の坐禅会に参加すると言うことはほとんどありませんので、自分以外の方が主催する坐禅会に参加することで興味深いことをいくつも発見できて楽しかったです。




その中の1つが、坐る時間の感じ方です。


一人で坐っているときには、時間に縛られることはありません。


自分が坐っていたいだけ坐っていることもできますし、集中力が途切れてしまえば、その瞬間に坐ることをやめることもできます。
ですから、坐禅を「長いなぁ」、「短いなぁ」と感じることすらありません。



しかし、坐禅会に参加すると、集中して坐っている最中に坐禅終了の合図が聞こえて坐禅を止めなくてはいけなかったり、逆に足がしびれて集中できないのに終わりの合図が聞こえてこないため坐り続けなくてはいけなかったりします。


私の場合は後者の場合がほとんどです・・・


「まだ終わらないかなぁ」


と考えてしまうことは珍しいことではありません・・・




しかし、その時に


「坐禅会に参加して良かった」


と思うようにしています。


坐禅の時間が長いと感じるのは、自分の中にある標準時間を基準にして、坐禅時間を長いか短いかに分けてしまっているからであり、時間の流れ方は坐禅会に参加している皆様と同じです。


私が「長いなぁ」と感じているときに周囲には黙々と坐っている方がいると、「あ、自分の中の時間軸でこの坐禅会を判断していた」と気づかせてくれます。


私は自分に甘い性格なので、一人で坐っているときに集中力が途切れれば「や~めた!」と思ってしまいます。


しかし、坐禅会に参加しているときにはそうはいきません。


「まだ終わらないかなぁ」


と感じながらも坐っている時間こそが、「自分の中の時間軸」という“自我”を捨てている時間だと感じます。




もちろん、禅宗の僧侶がこのような甘い考えではいけないのですが・・・


坐禅会に参加できる条件が調えば、


「まだ終わらないかなぁ」と感じたときに周囲の方に助けていただける坐禅会に参加していきたいと考えています・・・
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非公開コメント

いつも有り難うございます。

なるほど、そうなのですね!
日常の中でも不平不満が出た時、そのような視点を持つと、不平の中から脱出できそうです。

余談ですが、今日のお写真で横の壁に掛け軸がある事、気が付きました。

週刊法話ステーション、楽しみにしております。
どうぞ宜しくお願い致します。



コメントありがとうございます。

「日常の中でも不平不満が出た時、そのような視点を持つ」

この心のゆとりは本当に大切ですね。私自身もこのような心で過ごせるように努力してまいりたいと思います。


”今日のお写真で横の壁に掛け軸がある事、気が付きました。”
そうなんです。実はずっとかかってはいるのですがカメラの角度などの問題で映っていなかったのでこれまで紹介してきませんでした。

これからは、色紙を飾れる軸なので、時々色紙を交換して紹介させていただくかもしれません。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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