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素直なに喜ぶ姿に笑顔になる

先日、法事のお参りに来てくれた方の中に2才か3才の子供がいました。


東光寺(静岡市清水区横砂)では小さなお子様が来てくれたときにはお菓子を渡す習慣があります。


今回も子供がいることが分かった妻が、



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たまごボーロとラムネを小さな袋に入れて準備をしてくれました。



 東光寺ではこのお菓子の入った袋に、仏教のことを少しでも知ってほしいと言う願いから



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お寺の簡単な説明や食事に関するお経が書いてある紙を一緒に入れています。





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ですから、外から見るとどんなお菓子が入っているのが見づらくなっています。



 そんなお菓子が入った袋を、法事が終わって本堂から出てきた子供に妻が「はい、どーぞ」と言って渡すとその子供は満面の笑みを浮かべながら「ありがとう!!」と大きな声でご挨拶ができたのです。



袋の中に何が入っているのか、

渡してくれた人は誰なのか、

子供には分かりません。



それでも「ありがとう!」と大きな声でしっかりとご挨拶ができたこの子供の姿を見たときに、なんだかとても暖かい気持ちになり、妻も私も、そして周囲の人達までみんなが笑顔になりました。



私はこの笑顔に触れたとき、


「あ~、この姿が無分別そのものだ!!」


と感じました。






一般的には軽率なことを意味する“無分別”を仏教では“区別しない”という意味でとらえます。


区別しないということは

「こだわらない・ありのままに受け入れる」

言い換えることができ、大切にしているのです。




私達は普段の生活の中で分別をします。


これは大変便利なことで日常生活を送るためには必要不可欠なことです。


しかし二つに分けということは、どうしても「良い・悪い」と分けようとしてしまいます。


そして、そこに主語をつけて「私は正しい、相手が間違っている」と思い違いをしてしまい、この考え方を深めていくと結果として自分を苦しめることになってしまうのです。


だからこそ、禅では「無分別」を大切にします。




このように考えると分別は鎧【よろい】のようなものかもしれません。日常を生きていく上では自分を守るために「私は正しい」という鎧が必要です。

しかし、鎧を着たまま全てのことができるのかと言えば、もちろんできません。

戦いの場では大切な鎧も、ときには脱ぎ捨てなくてはいけません。

鎧を脱ぎ捨て、ありのままの姿を見せることを禅では「無分別」と説いているのです。




何かをもらって、満面の笑みで「ありがとう」と言った、あの子の姿に「分別」は感じませんでした。


まさに無分別です。


だからこそ、周囲の大人達も、その瞬間は自分が身につけている鎧を外すことができたように見えたのです。




・・・私も無分別の心で周囲の方と接していきたいと感じた出来事でした。
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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