精進料理に学ぶ トマト
先日の記事で講座「写経と精進料理」を紹介させていただきました。
※記事はこちらです。
今回の記事は前回の茄子に続き「ミニトマト」について書かせていただきます。
全福寺御住職の精進料理はどれも美味しいものばかりで、いつも有難くいただいています。
全ての料理がおいしいのですが、その中でも印象に残った料理について、講座終了後に質問をさせていただきました。
その一つが、
お品書きに「トマト」と書かれたこちらの料理でした。

一見すると”ただの”ミニトマトです。
しかし、このミニトマトが美味しいのです!!
本当に美味しいのです!!
食べてみると、まず驚くのが、皮が向かれていることです。
皮がなくなることで、トマトの味がそのまま伝わってきます。
口の中にトマトの甘さとほどよい酸味、そして何とも言えない清々しい香りが広がります。
「トマトの美味しいところだけを食べている」と感じてしまうほど、美味しいのです。
「皮をむいただけでミニトマトがこんなに美味しくなるのか!!?もしかして何か特別なトマトなのか??」
と思って、全福寺御住職にうかがうと
「皮をむいて、漬けてあるんだよ!」
とのことでした。
漬けてあると言っても、強い味ではありません。
あくまでも「トマトそのものを食べている・トマトの美味しいところだけを食べている」と感じるように漬けてあることは主張してきません。
このトマトを食べるたびに思い出すのが
仏教が説く「生まれたときから尊い心をいただいている」と言うことです。
私達は、誰もが生まれたときから仏様のような尊い心をいただいています。しかし、知らず知らずのうちその心を見失ってしまいます。
身体を調え、呼吸を調え、心を調える坐禅は、見失ってしまった心を実体験することにつながっています。
これは、ミニトマトの皮をむくように、気がつかないうちに尊い心を隠してしまったものを取り除くことと同じです。
また、坐禅に取り組むということは仏教の教えである仏法の中に入り込んでいくことであり、これはミニトマトの味を最大限に引き出すために液に漬けることに似ています。
皮をむいて漬けることで、ミニトマトの美味しいところだけを食べているように感じることで、仏教の教えにどっぷりと漬かりながら身体と呼吸と心を調えることの大切さを思い出します。
※記事はこちらです。
今回の記事は前回の茄子に続き「ミニトマト」について書かせていただきます。
全福寺御住職の精進料理はどれも美味しいものばかりで、いつも有難くいただいています。
全ての料理がおいしいのですが、その中でも印象に残った料理について、講座終了後に質問をさせていただきました。
その一つが、
お品書きに「トマト」と書かれたこちらの料理でした。

一見すると”ただの”ミニトマトです。
しかし、このミニトマトが美味しいのです!!
本当に美味しいのです!!
食べてみると、まず驚くのが、皮が向かれていることです。
皮がなくなることで、トマトの味がそのまま伝わってきます。
口の中にトマトの甘さとほどよい酸味、そして何とも言えない清々しい香りが広がります。
「トマトの美味しいところだけを食べている」と感じてしまうほど、美味しいのです。
「皮をむいただけでミニトマトがこんなに美味しくなるのか!!?もしかして何か特別なトマトなのか??」
と思って、全福寺御住職にうかがうと
「皮をむいて、漬けてあるんだよ!」
とのことでした。
漬けてあると言っても、強い味ではありません。
あくまでも「トマトそのものを食べている・トマトの美味しいところだけを食べている」と感じるように漬けてあることは主張してきません。
このトマトを食べるたびに思い出すのが
仏教が説く「生まれたときから尊い心をいただいている」と言うことです。
私達は、誰もが生まれたときから仏様のような尊い心をいただいています。しかし、知らず知らずのうちその心を見失ってしまいます。
身体を調え、呼吸を調え、心を調える坐禅は、見失ってしまった心を実体験することにつながっています。
これは、ミニトマトの皮をむくように、気がつかないうちに尊い心を隠してしまったものを取り除くことと同じです。
また、坐禅に取り組むということは仏教の教えである仏法の中に入り込んでいくことであり、これはミニトマトの味を最大限に引き出すために液に漬けることに似ています。
皮をむいて漬けることで、ミニトマトの美味しいところだけを食べているように感じることで、仏教の教えにどっぷりと漬かりながら身体と呼吸と心を調えることの大切さを思い出します。
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