竹の1メートル切りと 上下の節

「竹の1メートル切り」
という言葉を知っていますか?
以前から話題になっている言葉ですので知っている方もいらっしゃるかもしれません。
現代用語とも言える「竹の1メートル切り」は竹の性質を利用して竹を駆除する方法です。
昔から竹は成長が早いことや持ち運びが楽なこと、加工しやすいなど様々な理由から生活に欠かせないものでした。
しかし、昨今はプラスチックにその役割を奪われ、各地の竹は放置されてしまいました。
適切に管理がされなくなった山の竹は恐ろしい速さで増えていき、やがて他の植物を枯らし、日中でも光が入らない山になってしまいます。
そうなると地滑りなど様々な危険を抱えることになってしまいます。
東光寺の墓地がある観音山にも竹があり、その管理に悩まされています。そんなときに知ったのが竹を効率よく枯らすための方法である「竹の1メートル切り」です。
竹を根元で切って処理しても切り株はずっと残ってしまいます。
1つの切り株を掘り起こすことは大変な作業です。私も毎年、太い孟宗竹を100本以上処理していますが、切り株の処理などできません。
このような切り株問題を解決するのが、「1メートル切り」と言って竹を根元ではなく1メートル程残して切る方法があるのです。
竹は根元で切ると水を吸い上げることをやめるようですが、1メートル残して切ると、根は上部に竹があると思い根から水を吸い上げ続けます。しかし実際には竹がないため、その水分によって自身の実が腐ります。
細い竹の場合は1年、太い孟宗竹の場合は数年たつと根っこの部分からぽろっと取れてしまうのです。こうなれば切り株に足を取られることもなく安全に作業を続けることができるのです。
このぽろっと取れる竹を見ていると
竹に上下の節あり
という禅の言葉を思い出します。
皆様ご存じの通り、竹には上下の節があります。節によって竹はいくつもの層に分かれており、これは差別(区別)が存在していることを示しています。
差別・区別と聞くと「なんてけしからんことだ!!」と感じるかもしれません。しかし、差別や区別を助長するような言葉ではありません。
竹には節がありますが、それらが合わせって1本の美しい姿を見せてくれています。
これはそれぞれの節が自分勝手に生きているわけではないことを示しています。
自分は自分、夫、妻、友達、各々が独立した立場で精一杯生きていること。そして支配されない自主性を持っており、しかしそれでいて互に違ったもの同志が調和し、秩序をもって支え合い、助け合って社会を作り生きていくことを示しています。
なぜ「竹の1メートル切り」を見て「竹に上下の節あり」を思い出したのかと言えば、
ある程度の長さを残して切ると竹全体が腐ってしまうからです。
竹の成長が早いのは”節”があるからです。1つ1つが自分勝手に生きているのであれば、隣の節が切られようとも無傷な節は生きていけるはずです。
しかし、そうはいきません。この現象は竹の節が独立して存在しているように見えて、互いが一体となって生きていることを教えてくれています。
個性の時代と言われて「自分を大切にする」ことが尊いことだと感じてしまいがちですが、自分だけを大切にしても私達は生きていけないのです。
自分を大切にすることで、周囲も大切にして、共に生きていくことが何よりも大切だと、「個性」と「調和」を象徴するような竹の姿を見ていると感じます。
「竹に上下の節あり」は、個性だけではない、調和だけでもない、個性の中に調和があり、調和の中に個性があることを示しています。
昨今は脱プラスチックが叫ばれる時代になりました。これからは竹が以前のように私達の周りに戻ってくることがあるかもしれません。
竹の子を切って、その中の節を見たり、竹を見たときに、
独立した立場でそれぞれが精一杯生きているが、それでいて互に違ったもの同志が調和し、秩序をもって支え合い、助け合って社会を作り生きていくことを示した「竹に上下の節あり」と言う言葉を、思い出していただければ嬉しいです。
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