ラジオ マリンパル 禅なはなし 【4月の原稿】
※記事はこちらです。
その記事の中に、実際にはパーソナリティの方とのやり取りがあるので話したことと違いはありますが、用意した原稿を掲載しました。
すると、「先月の原稿も掲載してみたら!?」と言う、ありがたい御言葉をいただきました。
ですから、調子に乗って紹介をさせていただきます。
この時は「玄関」について話をさせていただきました。
以下の文章は、パーソナリティの方の手助けが入る前の伝わりにくい原稿です・・・
ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!
※3,500字ほどありますので、心にゆとりのある方だけがご覧ください

皆様ご存じの通り、玄関は靴を脱ぎ上着や帽子をはずして中に入る場所です。
この「玄関」という言葉は、実は禅の言葉、禅語です。
現在では、家の入り口を「玄関」と呼びますが、もともと玄関は禅宗の寺院にしかなかったものです。
玄関の「玄」は奥深い悟りの境地という意味があります。
そし「関」は厳しい入口・関門という意味があります。
つまり禅宗の寺院では
「奥深い悟りの境地を知るための関所・関門ですよ。ここは厳しい修行道場ですよ!」
とわかるように入口に「玄関」の文字を掲げていたそうです。
その「玄関」という言葉が一般的な家屋にも取り入れられ、家屋への入口を玄関と言うようになったと言われています。
私の個人的な考えなのですが、「玄関」という言葉が一般的な言葉として親しまれているということは仏教や禅が皆様に親しまれていることを意味していると思うと、大変に有難いことだと感じます。
今回はこの「厳しい入口」を意味する「関」について話をさせていただこうと考えています。
東光寺では毎年夏に小学生がお寺で1日を過ごし様々なことを学ぶ「寺子屋体験」を行っています。 その際に特別授業として小学生が普段は中々出会うことがない人の話しを聞く企画も行います。
以前の寺子屋体験には大学時代の後輩で現在は都内で獣医師として活躍している男性に講師を依頼しました。
彼は自分の体験などを分かりやすく話してくれて特別授業は好評のうちに終わりました。
その後、せっかくお寺に来たので彼はそのまま寺子屋体験に参加することになりました。
そして、全員で坐禅をしているときに彼は人生で初めて「警策【けいさく】」を受けたのです。
警策とは皆様がイメージしている坐禅中にたたく あの棒です。
彼にとって警策は思った以上に痛かったらしく、坐禅終了後に彼は私に冗談交じりで
「先輩、今の時代 世界的に犬におしっこをする場所を教える訓練でも叩いたりしませんよ! 犬も叩かない時代に、なんで人は叩くのですか?坐禅は厳しいですね!」
と言ったのです。
昔は犬のしつけをする際、おしっこを決められていない場所でするなど悪いことをした場合、厳しく叱ったり、叩いていたそうです。
しかし、現在では叩くことはせずに、叱ることも減らし、上手に出来たときに大げさに褒める方法が世界的に主流になっていると言うのです。
褒められた方が良いのは私もわかります。私も褒められたいですし、褒められれば伸びるかもしれません。
しかし、私は褒めることも厳しくすることも大切だと考えています。
厳しさをはき違えた理不尽な行為は許されることではありませんが、正当な厳しさの中で気が付くこともたくさんあることも事実です。
彼が叩かれた坐禅の姿勢も同じです。
坐禅をするときに姿勢良く坐りたいと思いませんか?その時に、自分の姿勢が良いか悪いか分からない、ということがあると思います。
では、どうしたら良いのでしょうか?
まずは自分の体を前後左右に揺らします。
そして、少しずつ 振り幅を小さくしていきます。振り幅が「0」になったとき、そこが自分の中心であり、良い姿勢になれているのです。
しかし、左右に振らずに片方だけに体を傾けて自分の中心を見つけることはできるのでしょか?もちろんできません。
傾いた状態になってしまいます。
人が人として成長していくとき、褒められることや認められることだけで成長していくと、心は偏った状態になってしまうような気がするのです。
自分の体の中心を勘違いした状態では、身体は傾き簡単な刺激で転んだりしやすいものです。
それと同じように「叱られたり」、「褒められたり、認められたり」と両方の刺激を受けることは、左右に体を揺らし自分の中心を見付ける方法によく似ています。
叱られることも、褒められることも、両方を経験した方が自分の中心を見つけることが出来るのだと思います。
褒めるだけでも良くない、叱るだけでも良くない・・・・褒めることも認めることも、そして叱ることも全てが大切なのです。
このように答えると、質問をした本人が納得できたようなので安心しています。
このような話をすると
「本当に厳しさが人に良い影響を与えるのか」と心配になることもあると思います。
私もそんな心配をしていました。
そんなときに、法事の際に忘れられない光景に出会うことができました。
その日、法事の為にお寺に来てくれた一家の中に、
おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、そして小学校4年生の男の子がいました。
玄関に入るとすぐに、おばあちゃんの大きな声が聞こえてきました。
「いつも、靴をそろえなさいって言ってるでしょ!!」
大人の私でも少し驚くほどの声で孫を叱っています。
法事の前にお茶を飲んでいただいているときも声が聞こえてきます。
「姿勢を良くしなさい!!」
やっぱり大きな声です・・・
もちろん、男の子は怖がっています。あまりの厳しい声に私も少し心配していました。
法事が始まっても、男の子の隣にはおばあちゃんがいます。
少しでもグラグラしようものなら、おばあちゃんが厳しく叱ります。さすがに法要中なので大きな声は出しませんが、様々な方法で男の子を叱ります。
男の子は泣くこともなく、そして反論することもなく、お経の本を読みながら過ごしています。
内心「そんなに怒らなくてもいいのになぁ、犬でも叱らない時代らしいのに・・・」そんなことを考えているときに、忘れられない美しい光景を目の当たりにしました。
法要が進み皆さんに焼香に進んでいただく時のことです。
おばあちゃんは少し前から足を悪くしていたので歩くときには杖を使います。
おばあちゃんが立ち上がり焼香へ進み出たときのことです。
おばあちゃんが気付くか気付かないか分からないくらい静かに男の子が立ち上がったのです。
そして、そっとおばあちゃんの後を歩いていきます。焼香の仕方が分からないから付いて行ったわけではありません。男の子の手はおばあちゃんの背中付近にあったのです。
触れているわけではありません。もちろん押しているわけでもありません。
背中に手をかざし、静かに支えているようにも見えました。
散々叱られていた男の子が、叱ったおばあちゃんを支えるように焼香に進んでいったのです。
男の子は父親や母親に言われたわけではなく、ただただ自然におばあちゃんを支えていたのです。
その姿を見たとき、とても美しい光景に感じたことを今でも覚えています。
普段から厳しく叱るおばあちゃん。しかし、感情的に怒っているのではなく、男の子のことを本気で考えて叱っていたからこそ、男の子はおばあちゃんの厳しさに中にある奥深さを実感していたのではないでしょうか。そして、その奥深さを感じたからこそ なんのはからいも無く自然とおばあちゃんの背中を支えることができたのだと思います。
最初に
「玄関は靴を脱ぎ上着や帽子をはずして中に入る場所です」
と言いました。
靴や帽子、上着は私達を守ってくれているものです。これは私達の知識や経験に置き換えることができると思います。私達は日常生活の中で知識や経験といったものを身に着けることで成長し生活を豊かにしています。
しかし、同時にこれらの知識や経験には思い込みや偏見といったものがこびりつきやすいのも事実です。
これらの思い込みや偏見などによって、私達が本来いただいていた素晴らしい心が見えにくくなってしまうこともあります。
玄関と言う場所は靴や上着を外すように、普段の生活の中で身に付けてしまったものをいったん外す場所でもあるのです。
そして、その外すために「関」という厳しさも必要になってきます。
現代は叱らないこと、厳しくしないことが優しさだと思われてしまう時代になってきました。
叱らないで表面上優しくする方が、簡単です。
しかし、そんな時代だからこそ、どこの家庭にもある「玄関」が本来もつ「奥深い境地への厳しい入口」という意味を今一度多くの方が再認識をすることで、愛情を持って叱ること、愛情をもって厳しくすることの意味を再び感じていただくことも大切だと思います。
また、玄関という言葉は「厳しさ」を表す「関」の文字の前に「奥深さ」を意味する「玄」の文字があります。
ただ厳しくするのではなく、厳しくする前に、徹底的に相手のことを思いやる「奥深さ・奥ゆかしさ」の大切さも表しているように感じます。
本日も、皆様はそれぞれの家の玄関へ足を運ぶと思います。
玄関を通るとき、玄関は禅の言葉であり、厳しいからこそ 解ることがあるということや、相手のことを徹底的に思いやることも大切だということを思い出していただければ幸いです。
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