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ラジオ マリンパル 禅なはなし 【5月】

法話(仏教・禅の話し)を考えたときに妻に原稿を見てもらうことがあります。


今月のラジオ(マリンパル・禅なはなし)の原稿も見てもらいました。


生放送を終えて帰宅すると妻が


「誰かに話しを聞いてもらうっていいね。パーソナリティの方の反応が素晴らしいから、原稿よりもよっぽどわかりやすかったね!!」


と言ってくれました。


喜んで良いのでしょうか???


聞いてくれた方に伝われば嬉しいので喜びます!!





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毎週月曜に「禅なはなし」というコーナーがあり、大変ありがたいことに毎月第2月曜日に話をさせていただく機会を与えられました。


大変ありがたいことに、今回はクビを宣言されず「次回もよろしくお願いします」との言葉をいただいたので、来月もお邪魔させていただけるようです。

来月は令和3年6月14日(月)12時30分からとなっています。興味のある方はぜひお聞きください。





以下の文章は、パーソナリティの方の手助けが入る前の伝わりにくい原稿です・・・
ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!
※4,000字ほどありますので、心にゆとりのある方だけがご覧ください




こんにちは本日は世間という言葉について紹介をさせていただきます。


皆さんは「結婚式や仕事の打ち上げなどみんなでパーっと集まろう!」と考えたとき、どのような日を選ぼうとしますか?


僧侶・お坊さんは、まず友引を考えます。これまで友引には火葬場がお休みなので葬儀が行われないという習慣があったので、お坊さんが集まろうとすると自然と友引になるのです。


ですから、お坊さん以外の友人から金曜の夜や土日に久しぶりに集まろうと言われると「世間とのずれ」を感じるのです。


私は世間からお坊さん以外にも「世間の非常識」と呼ばれる場所に長くいますので、そんな私が「世間」について話をすることは変なように感じるかもしれませんがお付き合いいただければありがたいです。


よく「〇〇の常識は世間の非常識」という言葉があります。


私は学生時代3年ほど物理学科の研究室にいました。


その際に指導してくださる先生方に


「物理学科の常識は世間の非常識だから気をつけてね。」


とよく言われました。


その後の中学校の教員をしていましたがその際にも同僚、先輩方に


「教員の常識は世間の非常識だから気をつけろよ。」


とよく言われました。


そしてその後、僧侶になってからは


「お坊さんの常識は世間の非常識だから気をつけろよ。」


とよく言われています。



このように、日常的に使われる「世間」という言葉は仏教の言葉です。


仏教では、「世間」には三つの世間があるという風に言われております。


一つが五蘊世間【ごうんせけん】、五蘊というのは聞きなれない言葉だと思います。


これは自分自身が見聞きしてきた世界、自分が感じる世界を表す言葉です。



次が衆生世間。衆生とは生きとし生きるもの全てという意味がありますので、この生きとし生けるもの全てが関わり合っている世界を衆生世間と言います。



最後に器世間。器(うつわ)という字を書きますので器(うつわ)世間と読む場合もありますけれども、これは宇宙全体、命あるもの全てをさらに包み込むような広い世界を表します。


これら五蘊世間・衆生世間・器世間といった言葉についている領域を表す「世間」という部分が抜き取られて日常的に「世間」と使われるようになったと言われています。


 しかし、もともと3つの異なる「世間」を1つにまとめてしまったが故に、私達は「世間」を見誤ってしまうことがあるように感じます。


 仏教では3つの「世間」を示すことで、私達は広い広い世界で、命あるすべてのもの達とつながって生かさせている存在なのだと示してくれています。




 しかし、私達はついつい自分が知っている世界が世界の全てだと思い込んでしまい、その世界の中で悩み苦しんでしまいます。
もちろん、私もその一人です。実はその一人だとはっきりと実感させられた出来事があるのです。


それが、中学校の教員をしていたときのことです。


中学校の教員になって2年目に僧侶であった祖父が亡くなりました。


祖父は戦後中学校の教員として務めながらお寺を守ってきた人でした。


当時の私は大学院を卒業し教員として就職をしたいわゆる“一般人”でした。


学生時代、教員時代ともにお寺から離れて生活をしていましたのでお寺の習慣やしきたりも知らない状態でした。


そこに、祖父が亡くなったとの連絡。


驚きましたが慌てて育ったお寺へと向かいました。


お寺に着くと住職を務めた祖父が亡くなったということで近隣のお寺の和尚様方も大勢弔問に来て下さっていました。


そして“一般人”の私にはわからない専門用語が飛び交いながら葬儀の日程や内容が決まっていきました。


そして数日後、火葬場にて祖父は荼毘にふされました。


火葬場では1時間30分程の待ち時間があります。


当時の火葬場は広い待機室があり、多くの人達が火葬の間は待機していました。


その部屋で待機をしていると久しぶりに会う親戚や地元の方が話しかけてきます。


「今、仕事は何かしているのか?」


と聞かれ


「中学校の教員をしています。」


と答えます。すると相手は


「へぇ、すごいね、がんばりな!」 又は 「教科は何?」


と返します。


そんなやりとりを数回していると、今まで話したことのない和尚様に声をかけられました。


「お孫さんだよね、今何をしているの?」


と聞かれたので、定型文のごとく


「中学校の教員をしています。」


と答えました。すると、これまでと違う言葉が投げかけられました。


「修行道場はどこへ行かれたのですか?」


当時の私は、修行せずに就職をしていたので


「行っていません。卒業後、すぐに就職をしました。」


と答えました。その瞬間、かなり大きな声で


「そんなことじゃいかん!! あなたはすぐにでも修行に行かなければいけないんだ!! こんな所で何をしているんだ!!」


と叱られました。


こんなに真正面から叱れたのはいつ以来だろうかと思い出せないくらい怒鳴られたのです。


何と返事をしたら良いのか、どういう行動をしたらいいのか分からず立ち尽くしたことだけは良く覚えています。


同時に、この人は「私を叱ってくれている」と感じることができました。


この和尚様は初対面の大人に対してまっすぐにぶつかってきてくださったのです。


私も当時はまだまだ経験が浅いと言っても生徒を指導していましたので感情的に怒ることは簡単だが、相手のことを本気で考えて叱ることの難しさは肌で感じていましたので、「この人は、しっかり叱ってくれている。この人が言っている仏教の世界とはどんな世界なんだろうか」と、私を仏の道へと誘導してくださったようにも感じました。


この和尚様は火葬場という大人しくするべき場所で、「世間」の眼など気にせず、修行に行くべきだと説いたのです。


当時の私は、ある程度の努力をして大学を卒業し、それまでの努力が認められて教員になりました。そこでも、努力をすることで周囲から認められ、私も満足していました。このまま生涯、教員として勤めていく。そのようにも考えていました。


これはまさに、小さな自分勝手な「世間」の中での生活でした。幼少期をお寺で過ごしということは、本当に多くの方々にお世話になるということです。しかも、お世話になっているということを肌で感じることができる場所です。しかし、お寺やお寺を支えてくださっている方々に育てていただいたことを忘れて「自分の努力でつかんだ夢をかなえた」と思い込んでしまっていたのです。


その小さな「世間」に留まろうとする私の姿を見て、その和尚様は私を叱ってくださったのです。



「修行へ行け」と言う言葉は「お寺で育ったからには坊さんにならなければいけない!」ということではありません。


「自分の原点とも言うべき足元を見ろ。原点とも言える大切なものをないがしろにしてはいけない。」という意味です。私はこの言葉に導かれて禅の修行というものを体験させていただくことで「命あるもの全てがつながっている衆生世間」という、それまでの人生で感じることができない世間を感じることができたと思っています。




このような話をしてしまいますと、お寺に生まれなければ、修行をしなければ広い「世間」を感じることができないのか!?狭い世間の中で悩み苦しまなければならないのか!?と感じてしまうかもしれません。


もちろん、違います!


仏教や禅では狭い世間にとらわれたり、自分の考えにこだわり縛られたりすることを嫌い、自分を縛っているものをほどくことで広い世界を実感していくことの大切さを説いています。


自分を縛っているものをほどいていていくためには何をしたら良いのでしょうか。




私はその答えが”お経”の中にあると思っています。


東光寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、本山で販売されている経本を法事や法要のときに使っています。


この経本には様々な教えであるお経が載っていますが、ページをめくっていって一番初めに出てくる教えが臨済宗妙心寺派の生活信条です。生活信条とは私達が普段の生活をする際に意識する教えです。具体的には



一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう

人間の尊さにめざめ 自分の生活も 他人の生活も大切にしましょう

生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう



と言うものです。



これは「世間」を実感するための実践だと私は考えています。



一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう


これは自分自身をしっかりと感じるための実践です。


言葉の通り姿勢を意識し、ゆっくり呼吸をすることで心を調えることが大切です。心が調うことで、自分とは何者か、自分の中にも仏の心とも言われる尊い心があることが実感できます。




そして、次に


人間の尊さにめざめ 自分の生活も 他人の生活も大切にしましょう


です。


これは自分だけでなく、他人と言う命あるもの全てとの関係を大切にするための実践です。


自分自身の心を調えたとき、自然と命ある全てのものに同じような心があることを感じます。すると他人を自分と区別し、ないがしろにできるはずもなく、自分と思って大切にすることができます。


これが衆生世間とも呼ばれる世界です。




最後に


生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう


です。


これは広い世界に生かされている私達が大切にしなければならない実践です。


私達は誰に生かされているのでしょうか。もちろん自分の力だけで生きているわけではありません。周囲の人達に生かされているのですが、自分も含めて周囲の人達はさらに大きな世界に生かされています。空があり海があり、太陽がある。そのような広い広い世界に生かされているのです。


そのことを実感するとき、私達はおのずから報恩といって誰かのために見返りを求めずに行動することなど恩に報いる生き方をするのです。


これが器世間と呼ばれる世界です。




もちろん生活信条の順番通りに自分の心を調え、他人を大切にし、恩に報いていくことも大切です。しかし順番は関係ありません。


まだ自分の心が調っていないから他人を大切にできない。


まだ他人を大切にできていないから、誰かのために何かすることができない。


ということではありません。


今・この瞬間にできることを精一杯にすることが大切です。


静かに坐れるなら精一杯坐る。

誰かにやさしくできそうなら、精一杯優しくする。



今できることを精一杯にすることを積み重ねていくことが広大な「世間」を感じることであり、普段の生活で使っている「世間」の中で気持ちよく生きていく方法だと信じています。




一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう

人間の尊さにめざめ 自分の生活も 他人の生活も大切にしましょう

生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう



頭の片隅にとどめていただければ嬉しいです。

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初心に戻ることができました。

いつの間にか自分中心にものを考え行動していることに気づかせていただきました。
改めて、お陰様の心で皆共に幸せでいられるような行動をしていこうと思いました。
ありがとうございます!

横山和尚様のお話は、いつも心に響きます。

可能であれば、1回目のラジオの法話や、次回の法話もブログにあげていただけると嬉しいです。

オンライン座禅会を通じて、今までご縁の無かった仏教に出逢え、教えを学ぶ事ができ感謝しています。
ありがとうございます😊

コメントありがとうございます!!

まさか、1回目の法話の内容にまで興味を持っていただけれるとは・・・

うれしいです。

ありがとうございます。

調子に乗って、近日中にブログに掲載させていただきます。

・・・ただ、原稿よりもパーソナリティさんが間に入ってくださった放送の方が分かりやすいことは間違いありません。
あまり期待せずにご覧いただければ幸いです!!!

ありがとうございます!!
とても嬉しいです。
楽しみにしています。
どうぞよろしくお願い致します。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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