「嫌い」 や 「怖い」 は 知らない からできている
顧問の先生が守備練習をしたい生徒のためにノックを打つ。
生徒は必死に球を追いかけて、飛びついていた。
このような姿を遠くから見ていたとき、ある程度野球について知識があれば
「一つの競技に一生懸命取り組む姿」だと感じることができます。
しかし、ボールが見えないくらい遠い場所から先ほどの練習を野球の知識がまったくない人が見ていたら
学校の敷地内で大きな声を出しながら金属製の棒を振り回す男がいる。
その周辺では学生たちがバタバタと倒れていく。
と思ってしまうかもしれません。
先日、

「怖い」を分解すると、ほとんどが「知らない」と「わからない」でできている。だから知識が必要なんだよ。
合わせて「きらい」も同じように、「知らない」と「わからない」でできているように思います!
といった言葉を見てハッとさせられました。
野球部の顧問の姿は、知っている人には一生懸命生徒のためにノックをするように見えますが、知らなければ金属製の棒を振り回しているのうに見えてしまうのです。
仏教や「宗教」も同じです。
葬儀や法事など尊い習慣も「知らない」や「わからない」となってしまえば「なんとなく怖いもの」になってしまいます。
しかし、それはとっても”もったいない”ことです。
「怖い」 = 「知らない」 + 「わからない」
という言葉を目にしたときに、宗教や仏教が「なんとなく怖いもの」と感じられてしまうような”もったいない”状況にならないように、仏教のことや宗教のことを伝え続けていきたいと感じました。
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