六牙の白象 【ろくげのびゃくぞう】

嫌いな人、苦手な人にやさしくできますか?
私はなかなかできません。
喧嘩をした相手に心から謝ることはできますか?
私はなかなかできません。
最近、幼いころに喧嘩をした相手に「ごめんね、喧嘩をするのはもうやめよう」と言われて、素直に「僕もごめんね」と謝ったことを思い出しました。
あの時は、なぜ素直に謝ることができたのでしょうか。
相手はなぜ、喧嘩をしている嫌いな相手、苦手な相手に素直に謝れたのでしょうか。
思い出してみると、お互いの心が素直になれた瞬間があったのだと思います。
お互いの心が調ったとき、「今までの行動は間違っていた、謝りたい」と感じ、それが素直に実行に移せたのです。
調った心がなければ、いつまでたっても
「あいつが悪いんだ、謝るもんか」
と考えていたでしょう。
仏教聖典の中に六牙の白象【ろくげのびゃくぞう】というお話があります。
ある国の王妃が、六牙の白象の夢を見た。王妃は、その象牙をぜひ自分のものにしたいと思い、王にその牙を手に入れたいと願った。
王妃を愛する王は、この無理な願いを退けることができず、このような象を知る者があれば届け出よ、と賞金をつけて国中に触れを出した。
その象はあるときひとりの猟師を危難から救ってやった。ようやく国へ帰ることのできたこの猟師は、この触れを見、賞金に眼がくらみ、恩を忘れて、六牙の象を殺そうと山へ向い毒矢を象に放った。
激しい毒矢に射られて死期の近いことを知った象は、猟師の罪をとがめようともせずに、かえってその煩悩の過ちを哀れみ、猟師をその四つの足の間に入れて、報復しようとする大勢の仲間の象から守り、さらに、猟師がこの危険をおかすに至ったわけを尋ねて、彼が六つの牙を求めるためであることを知り、自ら牙を大木に打ちつけて折り、彼にこれを与えた。
象は、「この布施行によって仏道修行を成就した。わたしは仏の国に生まれるであろう。やがて仏と成ったら、まず、あなたの心の中にある貪り・瞋り・愚かさという三つの毒矢を抜き去るであろう。」と誓った
という話です。
見返りを求めず、相手の為に何かすることを布施【ふせ】と言います。
なかなか、六牙の白象のような徹底的な布施はできないかもしれません。
しかし、喧嘩をしている相手に謝ることは、憎き相手のことを想って行動する六牙の白象の行動と相通じる部分があります。
六牙の白象のようになりたいものですが、すぐには難しいものですが、喧嘩をしている相手に謝ることはその第一歩になります。
さらに、喧嘩をしている相手に謝るためには心を調えなければ実践することができないとするならば、自分自身の心を調えることこそが六牙の白象のようになるための本当の第一歩なのだと私は考えています。
そして、心を調えるためには何か特別なことを編み出す必要はありません。
坐禅や写経、お参りなど、お寺や地域など、これまでに伝わる良い習慣を実践し、心を調えて普段の生活を送ることが大切です。
良い習慣は、どこか遠くにあるものではありません。
身近に残っている良い習慣を感じてみてはいかがでしょか。
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