食事五観文 その3 【お米1粒に88の苦労、では半粒なら苦労は44!?】

私も家族の食事を作ることがありますが、食事を作るときに3人前を作るのも4人前作るのも苦労は同じだと思います。同じものを作るのであれば1人前だからといって苦労が減るわけではありません。
昔から、”米”という漢字の成り立ちを含めて「お米1粒を作るのに88(八十八)の苦労がある」と言われています。
では、1粒ではなく半粒だったら苦労は半分になるのでしょうか。
もちろんなりません。
88の苦労があります。
では、1/4粒なら!?
もちろん22の苦労ではなく88の苦労があります。
と、言うことは茶碗にこびりついてしまったお米にも88の苦労があるのです。
食事の前に「いただきます」と挨拶をしますが、禅宗ではもう少し丁寧な言葉があります。
それが食事の前にお唱えする食事五観文【しょくじごかんもん】というお経です。
食事五観文は食事をする際の誓いの言葉であり、5つの言葉から成り立っています。
その中に
心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、過ちを持たないことを誓います。
という意味の
三つには、心を防ぎ、過貧等を 離るるを 宗とす
【みつには しんをふせぎ とがとんとうを はなるるを しゅうとす】
という言葉があります。
心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、過ちを持たないことを誓います。
普段の生活でも大切にしなくていけないことですが、食事に目を向けたときには
「欲張らず、残さずいただきます」
と言い換えることもできます。
”残さず”というのは本当に難しいことです。
茶碗にこびりついたお米にも88の苦労が詰まっているのであれば、この1粒にも満たないこびりつきすら残してはいけないのです。
だからこそ禅宗の食事だけでなく、古くからの習慣として【洗鉢:せんぱつ】があるのです。
洗鉢とは、鉢を洗うことです。
鉢とは食事をする際に使う食器です。
※托鉢を受ける器も同じものです。
つまり、食器を洗うことです。
「え、食器を洗う!? 誰でも洗うよ!!」
と思うかもしれませんが、多くの方が想像する洗剤とスポンジを使って台所で行う食器洗いとは少し違います。
洗剤の代わりにお茶、又はお湯
スポンジの代わりにタクアンを使い、
洗う場所は台所ではなく、食事をした場所なのです。
食事が終わると、使っていた器にお茶を注ぎタクアンでこびりついたお米をそぎ落とし、お茶もタクアン、そぎ落としたお米も全てを飲み干しいただくのです。
この習慣には多くの意味が込められていますが、
「残さない」を徹底的に行った姿だと私は捉えています。
こびりついた部分にすらお米の”いのち”を感じて大切にするための習慣なのであり、「欲張らず、残さずいただく」ことの実践なのです。
こういった、大きい・小さいなどと言った形にこだわることなく全ての“いのち”を大切にする習慣こそが、「心を正しく保ち、あやまった行いを避ける」ために大切なことになるのです。
心を正しく保つために、
慣れない洗鉢を突然することは難しいかもしれませんが、徹底的な「残さない」に挑戦し、習慣になっていくことを願っています。
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