仏教聖典 キサーゴ―タミーの話しに学ぶ

仏教聖典の中でも大変有名なお話の一つがキサーゴ―タミーの話です。
裕福な家の若い女性が、あるとき自分の子供亡くしてしまうお話しです。
女性は大切な我が子を亡くして心を病んでしまいます。
自分の子供を何とか生き返らせようと街中の家々を回り、亡くなった子供を見せては助けてくれとすがるのです。
そんな姿を見たお釈迦様の信者さんのひとりがお釈迦様のもとへ行くように勧めます。
早速彼女はお釈迦様のもとへ子供を抱いていきました。
お釈迦様は静かにその様子を見て
「この子を治すにはケシの実が入る。しかし、そのケシの実はまだ一度も死者の出ていない家から貰って来なければならない。」
このようにおっしゃいました。
女性は街に再び出て、芥子の実を求めました。しかし残念ながら芥子の実があるという家はたくさんありますが、死者が出ていない家はどこにもありませんでした。
ついに、芥子の実を手に入れることができないとわかった女性はお釈迦様のもとへ戻って行きました。そこで、女性はお釈迦様の静かな姿を見て、初めてお釈迦様が何を言いたかったのかが分かったのです。
女性は子供の小さな亡骸をお墓に納めお釈迦様のもとへ戻って弟子となったのです。
というお話です。
大切な人の死を受け入れることを説く話です。
「実感する・体験する」ということはとても大切です。
しかし、死を体験すると言うことはなかなかできるものではありません。
先日、臨済宗青年僧の会で主催したオンライン特別講座でジブリの鈴木様と龍雲寺の細川師の対談がありました。

当日の動画は現在YouTubeで見ることができますので、まだご覧になっていないかたはぜひ、動画をご覧ください。
※動画はこちらでご覧いただけます。
この対談の中で私が印象に残っているのは、ジブリの鈴木さんが「葬儀の際の棺桶の釘打ちをやってほしい」と語った場面です。
昔は棺の蓋に金槌でコンコンって釘を打ちつけたので、その音を聴くことによってお葬式に緊張感が出たんです。それで死を実感するってことがありましたね。
~中略~
死を実感すれば、生きることに一生懸命になれる。
このようにおっしゃっていました。
私も、同じ考えです。
葬儀は釘打ちだけでなく、様々なことを行います。
現代では電動のカートなどが使われることもありますが、棺を担いて火葬場へと運ぶ際に手にかかるズッシリとした重さも人が亡くなったことを実感する瞬間です。
昔は薪を積み点火して火葬をしていましたが、現代では火葬場の扉がしまり点火をするのもスイッチを押すだけです。
しかし、その場にいれば扉の閉まる音そしてゴーという炎の音が聞こえてきます。この音も死を実感する音です。
難しい言葉が多いと退屈に感じるかもしれませんが、亡くなった方の徳を称え漢詩を唱える場面もあります。
その漢詩を耳にすることで、亡くなった方の一生を今一度感じることもできます。
葬儀に参列し参加することで、私達は自然と死を実感し受け入れていく心を養っているのです。
仏教聖典に出てくる「裕福な家の若い女性」というのはもちろん例えです。
裕福な家の若い女性が全員「死」を実感することができない人だと言っているのではありません。
「お金持ち」は私達の「知識」を示しているように感じます。
つまり、裕福な家の若い女性というのは「知識」だけは豊富で自分の身体で何かを体験する機会が減っている私達を示しているのです。
「裕福な家の若い女性」は知識としては「死」を知っていたかもしれません。しかしお釈迦様に言われて街中を周り村人の話しを聞くことによって、死をより多く体験することになり、自分の子供も亡くなってしまうことを体感したのです。
そのことにどれだけの時間を要したかは分かりませんが、体験したことで夢から覚めたように気がつくことができたのです。
今を生きている私達が「死」を体験する場面はどんどん減っています。しかし、通夜・葬儀そして法事やお寺や地域に残る習慣の中には多くの「死」体験する行が残されています。
だからこそ、私はこれらの習慣の本質を絶やすことなく大切にしていきたいと考えていますし、少しでも多くの方にこのことを伝えていこうと考えています。
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