給食を黙って食べることは「かわいそう」なのか
コロナウイルス感染拡大を抑えるために会食自粛が叫ばれています。
これは大人の世界だけではありません。
子供達の世界に同じことが求められています。
子供達の場合は「給食の時間に話しをしてはいけない」ということが求められています。
給食の時間におしゃべり禁止令が出ている学校は少なくないようですが、このようなことが行われていることを知った人の中には
「食事(給食)を黙って食べるなんてかわいそう」
という方もいます。
先日、そのような方の意見を拝読させていただきました。その方は教育関係のお仕事をされている方で、様々な著書も書かれている方でした。
その方が書かれた「黙って給食をたべること」に関する記事(論文!?)を見ていると、給食を食べる際には
「楽しく食べる・楽しい気持ちで食べる」ことがとても大切だと書かれていました。

楽しく食べることができれば、自然と美味しく食べることができる。
美味しく食べることができれば給食の時間が楽しくなり、学校が楽しくなる。
その通りです。
もちろん、これは間違いないことです。
この方はさらに
だからこそ給食を黙って食べることはかわいそうなことであり、黙って食べる給食は楽しくない。楽しくないと給食は美味しく感じないし、学校もつまらなく感じてしまう。
と、言うのです。
お寺では食事の前に食事五観文【しょくじごかんもん】というお経をお唱えし、黙って食事をします。
個人的に、私はこの食事風景が美しく尊いものだと感じています。
食事五観文は食事をする際の誓いの言葉であり、
この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。
という意味の
一つには、 功の多少を計り彼の来処を量る
【ひとつには こうの たしょうを はかり かの らいしょうを はかる】
と始まります。

「おいしくいただく」、「楽しくいただく」ことは食事をする際に大切な要素です。
その他にも大切な要素はありますが、その全てを支えているのが「ありがたくいただく」ことなのです。
何か危機的な状況で自分の命を救ってくれた人に「ありがとう」とお礼を言うときに、テレビを見ながら御礼を言う人はいません。
隣の人とおしゃべりをしながら「ありがとね」という人もいません。
スマホをいじりながらも言いません。
目の前の食事をありがたくいただこうと考えたとき、
目の前の食事の中に存在する無数の命を目の当たりにしたとき、
目の前の食事がここに届くまでの多くの方の支えを感じたときに、
誰かと話したり、テレビを見たり、スマホをいじりながら、その食事と向き合えることができるのでしょうか。
そんなことはできません。
ただ、ありがたく感謝しながら食べることしかできないのです。
だからこそ、お寺の食事は”黙って食べる”こと美しくも尊いのです。

せっかく黙って食事をする機会があるのならば
給食を黙って食べることがかわいそうと考えるよりも、
給食を黙って食べることは「全てもの感謝する」実践だと考えた方が幸せな食事になるのではないでしょうか。
これは大人の世界だけではありません。
子供達の世界に同じことが求められています。
子供達の場合は「給食の時間に話しをしてはいけない」ということが求められています。
給食の時間におしゃべり禁止令が出ている学校は少なくないようですが、このようなことが行われていることを知った人の中には
「食事(給食)を黙って食べるなんてかわいそう」
という方もいます。
先日、そのような方の意見を拝読させていただきました。その方は教育関係のお仕事をされている方で、様々な著書も書かれている方でした。
その方が書かれた「黙って給食をたべること」に関する記事(論文!?)を見ていると、給食を食べる際には
「楽しく食べる・楽しい気持ちで食べる」ことがとても大切だと書かれていました。

楽しく食べることができれば、自然と美味しく食べることができる。
美味しく食べることができれば給食の時間が楽しくなり、学校が楽しくなる。
その通りです。
もちろん、これは間違いないことです。
この方はさらに
だからこそ給食を黙って食べることはかわいそうなことであり、黙って食べる給食は楽しくない。楽しくないと給食は美味しく感じないし、学校もつまらなく感じてしまう。
と、言うのです。
お寺では食事の前に食事五観文【しょくじごかんもん】というお経をお唱えし、黙って食事をします。
個人的に、私はこの食事風景が美しく尊いものだと感じています。
食事五観文は食事をする際の誓いの言葉であり、
この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。
という意味の
一つには、 功の多少を計り彼の来処を量る
【ひとつには こうの たしょうを はかり かの らいしょうを はかる】
と始まります。

「おいしくいただく」、「楽しくいただく」ことは食事をする際に大切な要素です。
その他にも大切な要素はありますが、その全てを支えているのが「ありがたくいただく」ことなのです。
何か危機的な状況で自分の命を救ってくれた人に「ありがとう」とお礼を言うときに、テレビを見ながら御礼を言う人はいません。
隣の人とおしゃべりをしながら「ありがとね」という人もいません。
スマホをいじりながらも言いません。
目の前の食事をありがたくいただこうと考えたとき、
目の前の食事の中に存在する無数の命を目の当たりにしたとき、
目の前の食事がここに届くまでの多くの方の支えを感じたときに、
誰かと話したり、テレビを見たり、スマホをいじりながら、その食事と向き合えることができるのでしょうか。
そんなことはできません。
ただ、ありがたく感謝しながら食べることしかできないのです。
だからこそ、お寺の食事は”黙って食べる”こと美しくも尊いのです。

せっかく黙って食事をする機会があるのならば
給食を黙って食べることがかわいそうと考えるよりも、
給食を黙って食べることは「全てもの感謝する」実践だと考えた方が幸せな食事になるのではないでしょうか。
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