実践して実感する例え話
仏教や禅の話に「泥水の例え話」がよく出てきます。
水が清らかな心、泥が煩悩を示します。
器の中で水と泥を混ぜれば当然にごります。
この状態が普段の私達の感情だというのです。
しばらく待つと、泥は沈み上層部の水は透き通ります。
この状態を“心が落ち着く”、“心が調う”と表現します。
先日、小学校に通う娘が泥水の入ったペットボトルを持ち帰ってきました。
理科の授業で地層を学んだとのこと。

このペットボトルを見たとき
「あ、あの例え話だ!」
と感じました。
早速、泥が沈殿していく様子を見てみようとペットボトルを振ってみました。
しかし!!!
なかなか沈殿しません!!!
数時間後、ようやく“ある程度”沈殿をしました。
でも、水は濁ったまま・・・
24時間くらい経過すると、ぼやっとした透明になります。
「ある程度、透明」と言っても良いと思います。
その後は本当に少しづつ、すこしづつ水は透明になっていくのです。
沈殿した泥が増えたようには見えないのですが、小さな粒が少しづつ落ちていき水がきれいになってきました。

なんと1週間が経過してようやくこの状態です。
今まで私は「泥水の例え話」に時間の概念を入れていませんでした。
泥水の例え話を知識としてだけ受け入れて話してきたのです。
しかし、実際にやってみると水が透明になるのに思いのほか時間がかかることを体感することができました。
この経験をしたときに、心を調えたいと感じて坐禅などに取り組む方のことを考えました。
坐禅は短い時間でも心が調うことを実体験することができます。
しかし、泥水の水も始めたばかりのときは“ある程度の透明”にはなるものの、そこから透明になるまでに長い時間が必要です。
心を調えるということも同じだと感じています。
“ある程度”から“しっかり”と調うまでは長く険しい道のりかもしれません。
目に見える成果もありません。
しかし、泥水が時間をかけて透明になったのを見て、一歩一歩を着実に進むことで私達の心は、しっかりと調っていくと信じて、そして時間の概念も加えた例え話をしながら、これからも坐禅の尊さを伝えていきたいと考えています。
水が清らかな心、泥が煩悩を示します。
器の中で水と泥を混ぜれば当然にごります。
この状態が普段の私達の感情だというのです。
しばらく待つと、泥は沈み上層部の水は透き通ります。
この状態を“心が落ち着く”、“心が調う”と表現します。
先日、小学校に通う娘が泥水の入ったペットボトルを持ち帰ってきました。
理科の授業で地層を学んだとのこと。

このペットボトルを見たとき
「あ、あの例え話だ!」
と感じました。
早速、泥が沈殿していく様子を見てみようとペットボトルを振ってみました。
しかし!!!
なかなか沈殿しません!!!
数時間後、ようやく“ある程度”沈殿をしました。
でも、水は濁ったまま・・・
24時間くらい経過すると、ぼやっとした透明になります。
「ある程度、透明」と言っても良いと思います。
その後は本当に少しづつ、すこしづつ水は透明になっていくのです。
沈殿した泥が増えたようには見えないのですが、小さな粒が少しづつ落ちていき水がきれいになってきました。

なんと1週間が経過してようやくこの状態です。
今まで私は「泥水の例え話」に時間の概念を入れていませんでした。
泥水の例え話を知識としてだけ受け入れて話してきたのです。
しかし、実際にやってみると水が透明になるのに思いのほか時間がかかることを体感することができました。
この経験をしたときに、心を調えたいと感じて坐禅などに取り組む方のことを考えました。
坐禅は短い時間でも心が調うことを実体験することができます。
しかし、泥水の水も始めたばかりのときは“ある程度の透明”にはなるものの、そこから透明になるまでに長い時間が必要です。
心を調えるということも同じだと感じています。
“ある程度”から“しっかり”と調うまでは長く険しい道のりかもしれません。
目に見える成果もありません。
しかし、泥水が時間をかけて透明になったのを見て、一歩一歩を着実に進むことで私達の心は、しっかりと調っていくと信じて、そして時間の概念も加えた例え話をしながら、これからも坐禅の尊さを伝えていきたいと考えています。
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