オンライン坐禅会での法話 【一般向け:仏教聖典 心を清める5 危険から遠ざかる その2】

前回の記事で
仏教聖典の中にある「煩悩から離れる五つの方法」の中の「危険から遠ざかる」を紹介させていただきました。
※記事はこちらです
荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。
と仏教聖典にはあります。私は
「遠ざかりなさい・離れなさい・距離を置きなさい」を伝えると同時に
「別の世界があること、世界は限りなく広いこと、大勢が歩ける広い道も1人でしか歩けない狭い道でも道は必ずつながっていること」
を同時に伝えることが大切なのではないかと話をさせていただきました。
今回はその続きともいえる話をさせていただきます。
昭和の禅僧で、禅の教えを多くの方に伝えた山田無文老師は著書“生活の中の般若心経”で
苦しみの中にいて苦しみを離れる智慧、それを般若の智慧と申しましょう。
と書かれています。それと同時に
大きな自分がわかることを、禅と申します。そのような大きな自分がわかることが、般若の智慧であります。
とも書かれています。これを合わせて考えると
大きな自分が分かることが苦しみの中にいて苦しみを離れる智慧
と言えるのではないでしょうか。
大きな自分が分かるとは何でしょうか。
禅では「大いなるいのち」という表現をよく使います。
私達1人1人の“いのち”はすべて縁があり、決して1人のものではない。
それは滝のようなもので、私達が「自分のいのち」と思っているものは滝から飛び出した1粒の水滴だと説くのです。
水滴はやがて滝にもどり流れていきますが、時として再び飛び出す。これを繰り返しているのが私達の世界だと表現しています。
この滝を「大いなるいのち」と表現し、この“いのち”に気がつくこと、この大きな存在を実感することこそが「大きな自分が分かる」ということだと私は考えています。
私は一度だけ坐禅をしている最中に涙が止まらなくなったことがあります。
修行をさせていただいているときは、自分の意思とは関係なく坐禅の時間があります。
「今は坐りたい気分じゃない」「また後で」
などということはもちろんありません。
足は痛い、さらに集中できていなければ容赦なく御指導いただきます。
そんな状況ですので、だんだん坐禅が嫌になっていました。
それでも坐禅の時間はやってきます。
ある日のこと。坐禅が始まってしばらくすると、いつものように足が痛くなりました。
でも動けません。
そんなときに足の痛みに耐えながら、いつもより目を少し見開いて周囲の様子が分かったときに、何故か仲間が一緒に坐っていることを実感できた気がしたのです。
当たり前ですが、これまでも一緒に坐っています。見たこともあります。
取り巻く環境も状況も何も変わっていません。
しかし、何故か仲間と一緒に坐禅をしている、一体となって坐禅をしていると感じた瞬間、涙が止まらなくなったのです。
自分でもなぜ涙が出ているのか分からず驚きましたが、動くことはできません、音を出すこともできませんので、そのまま涙と鼻水を垂れ流したことをよく覚えています。
今では、あの時の涙は感動の涙だと思ってはいます。足の痛みすらありがたいと感じていたのかもしれません。
そしてあの感動こそが、“自分”と“他人”という区別は必要なく“大きな自分”を実感する小さな小さな一歩だったように感じています。
もちろん「大きな自分」に気がつくための方法は坐禅だけではありません。
読経・供養・作務・日常生活・・・
全てのことが「大きな自分」に気がつき「苦しみの中にいて苦しみを離れる」体験につながっています。
広い世界を知り苦しみから離れること、そして苦しみの中にいて苦しみを離れることをひっくるめて仏教聖典では「危険から遠ざかる」と説いているのではないでしょうか。
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