オンライン坐禅会での法話 「なぜお坊さんの話しは長いのか。短い言葉だけが禅の心ではない!」
若かりし頃、ヒゲを剃ろうとカミソリを使って顔を切ったことがあります。最近は手元がくるってナタで人差し指を叩いて悶絶しました。厚手の手袋をしていたので大事にならず済みました・・・
カミソリとナタは便利な道具ですが、使い方を誤ると大怪我をする恐れがあります。
臨済宗青年僧の会ではオンライン坐禅会を実施しています。私も時々ですが坐禅を担当させていただいています。
※オンライン坐禅会のホームページはこちらです。
その際に話した内容を備忘録として記しておこうと考えています。
オンライン坐禅会には一般の方向けの会と子供向けの会があります。
今回は一般向けの坐禅会で話したものを紹介させていただきます。
【一般向け:カミソリとナタ】

お坊さんになる前は、「法話」のことを
“禅”の話しなのに長いよね。
“禅”ってもっとスパッと短いよね。
と思っていました・・・
どうしようもない奴でした・・・
ですから、お坊さんの「法話」が始まると「話しはいらない、せっかくなら禅語だけ紹介してればいいじゃん」と考えていた時期もありました。
・・・恥ずかしい過去です。
臨済宗青年僧の会の機関紙「不二」の79号(平成15年6月1日発行)に安永祖堂老師(当時:花園大学国際禅学科で教鞭・現在:臨済宗方広寺派管長)の記事がありました。
その中に「カミソリとナタ」という話しが出てきます。
安永祖堂老師は、禅僧をカミソリとナタに例えられ
カミソリを
頭脳明晰、弁が立つ、筆が立つ、知識を得ることにも意欲的
ナタを
薄い紙を切るような鋭さはないが大きな枝を断ち切るのは分厚い「ナタ」。
と示してくださっています。
私はこの記事を読んでいるときに禅僧がカミソリとナタに例えられるように、
迷いや苦しみ、煩悩をスパッと切る禅語もカミソリとナタに例えることができると感じました。
それと同時に、カミソリで頭や顔を、ナタで手を幾度となく傷付けてきた私は
カミソリもナタも便利な道具ですが使い方を誤ったり油断して使えば大変なことになる。
だからこそ、しっかりと使い方を学ぶ必要がある。
ということは、禅語も同じように捉え方を間違えれば、大変なことになるように感じるのです。
禅の修行に提唱【ていしょう】があります。
これは講義と考えていただいてもよいのですが、修行僧を指導する老師が厳かな雰囲気の中で禅を説くものですので、一般的な講演会や講義とは雰囲気、緊張感、望む心構えは大きく異なります。
提唱は修行道場の中だけで行われているものではありません。
臨済宗青年僧の会では毎年“住職学”というお坊さんのための勉強会を開催していますが、ここでも必ず老師による提唱が行われます。
提唱では一般的には“語録”と呼ばれる昔の禅僧が説いた教えが書かれた本をテキストとして使用します。
60分から90分、ときには120分を超えて行わる提唱ですが、この語録を読み進めながら老師が禅の心を懇切丁寧に説いてくださるのです。
私には印象に残っている提唱があります。
2週間の勉強会中に2日か3日おきに老師が提唱をしてくださったことがありました。
このときも、指定されたテキストを我々参加者が持参して提唱が始まりました。
しかし、この時の提唱はテキストが先に進まないのです。
多くの場合、区切りの良いところまで老師がテキストを音読し、話をしてくださいます。
話が終わり、次の提唱となれば、前回の続きを老師が音読をして話をする・・・
と続くはずです。
しかし、この勉強会中 6回の提唱は全て同じ部分を老師は音読され続けたのです。
つまり、同じ部分を何度も何度も解説し続けられたのです。
短くて60分、長い時には120分。
もちろんテキストの大部分を音読したわけではありません。
短い単元を繰り返し、繰り返し提唱してくださったのです。
では、同じ話をしたのでしょうか?
もちろん、違います。
繰り返し同じ単元を話してくださるのですが、内容は毎回異なります。
引き込まれるように話しを聞きながら、これほどまでに丁寧に話をしてくださることに感動すると同時に、1つの禅語の奥深さを教えていただいたように感じています。
そして、1つの禅語を伝えるためには、どれほどの力が必要なのか見せられ、意味だけを辞書で調べて禅語を紹介していた自分の未熟さが恥ずかしくなりました。
禅語は私達の心をスパッと切り裂き、迷いなどの煩悩を断ち切るカミソリやナタのような力を持っています。
だからこそ、その特徴や使い方をしっかりと伝えなくてはいけないとこの出来事があってから感じるようになりました。
安永祖堂老師は
やはり大きな枝を断ち切るのは少々刃こぼれしても平気な分厚い「ナタ」。
臨済宗の禅僧としての理想像はやはり、「カミソリ」ではなく「ナタ」なのではないでしょうか。広い度量、深い器量を秘めた若い禅僧が現われてくださるよう願っております。
と説かれています。さらに、ナタのような広い度量、深い器量を得るために、しっかり坐ることの大切さも合わせて説かれています。
これらの言葉から私は、
禅や禅語と向き合うためにはしっかり坐ること、そして伝えるためには多くの体験やそれを補うだけの言葉が必要だと考えています。
だからそ、「法話」が始まると「話しはいらない、せっかくなら禅語だけ紹介してればいいじゃん」と考えていた以前の自分を反省しながら、話を続けています。
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