禅 と 禅語

「日本と日本語は違うものです。」
と言われて
「いやいや、同じでしょ!」
と言う人は多くないと思います。
「富士山は日本の心です」
と紹介しても、問題は少ないと思います。
しかし
「日本の心は富士山だけです」
と言うとおかしなことになってしまいます。
「日本には富士山以外にも山はあるし、平野もある、湖も、そして広大な海もあるじゃないか!」
と言われてしまいます。
「日本」を説明しようとすると、たくさんの言葉が必要となり、ときには回りくどい言い回しも必要になってきます。
時々ですが
「禅宗のお坊さんは なんでも短く端的に話すことができるんでしょ。余分な言葉を使わなくても言いたいことを相手に伝えることができるでしょ。」
と言う方がいます。そのような方は
「だって禅語って短いじゃん。短い言葉の中に全てが入っているんでしょ。禅語だけ話せばいいじゃん!」
という発想のようです。しかし、残念ながらこれは誤解です。
確かに多くの禅語は短い言葉で、多くのことを伝えてくれています。
禅語を辞書で調べれば「禅宗独特の言葉・術語」と出てきますが、禅の教えを伝え続けた松原泰道和尚様は著書の中で禅語のことを
人間を超える遙かに深いところから起こる声なき声が、人間のことばとなって、はじめて背骨にひびき、その背骨の曲がりをたたき直すのです。禅語とは、そういうものです。
と表現されています。文字の長さに関わらず、その深い教えを伝えてくれているのが禅語なのです。
では、「禅」とは何でしょう。
臨済宗妙心寺派の本山である妙心寺のホームページに
禅とは
禅とは心の別名です。
~中略(妙心寺ホームページはこちらです)~
禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです。
と紹介されています。
では、「心とは何でしょうか?」
と聞かれれば答えは人それぞれ違ってくるでしょう。
説明をしようと思えばたくさんの言葉が必要ですし、回りくどい説明も必要になります。
だからこそ、「法話【ほうわ】」があるのです。
禅の教えを知ってもらうために、禅語とその意味だけを伝えただけでは不十分なのです。
様々な禅語や体験、そして文字を使って話しをするのが法話です。
私達は1つの禅語を聞いて、世の中のすべてのことが分かる尊い心を誰もが持っていると説いてはいますが、実際にそのようなことができる人ばかりではありません。
もちろん、私にはできません・・・
しかし、多くの和尚様方の法話を聞き、日常の中に修行を取り入れることで、おぼろげながら禅の心を知ることができるようになってきました。
ぜひ、多くの方に禅の教えに触れていただきながら、日常の中にその教えを取り入れていただきたいと思っています。
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