愚痴りたいときほど 感謝の言葉

お葬式では親族が故人に対して「お別れの言葉」を贈る場面があります。
先日、中学生が亡くなった祖父のお葬式でお別れの言葉を贈る場面に立ち会う機会がありました。
祭壇前に立つ中学生はしっかりと焼香をして合掌礼拝を終えるとポケットから原稿を取り出しました。
事前に書いたお別れの言葉を読み上げる中学生の言葉に耳を傾けていると、祖父にかけてもらった言葉や、みせてもらった生き方に対する感謝の言葉が次々と出てきます。
この中学生はお葬式の始まりに献花(お花をお供えする儀式)も、自分よりも小さい子供達の面倒を見ながら立派に務めてくれていたので「立派な中学生だなぁ」と私は感じていました。
ところが、突然お別れの言葉を読み上げることができなくなったのです。
感極まって言葉が出てこなくなり、押し殺しても出てきてしまう泣き声だけが本堂に響きました。
もちろん、多くの参列者が涙を流し、誰もが中学生を温かく見守りました。
しばらくすると中学生は、涙を流しながら、声を振り絞って最後までお別れの言葉を贈りました。
席に戻った後もしばらく声をあげて泣く中学生の姿は忘れることができません。
この姿を見たときに「愚痴りたいときほど 感謝の言葉を声に出することの大切さ」を痛感しました。
大好きだった祖父の葬儀前、そして葬儀中も表情を崩さなかった中学生が、声を出して自分が書いた手紙を読み上げたことで涙を止めることができなくなったのです。
祖父を無くした悲しみは常にあり、葬儀前や手紙を書いているときにも祖父のことを考えたでしょう。
葬儀が始まってからも考えたことでしょう。
しかし声を上げて涙を流すことはありませんでした。
声を出すことによって、祖父とのお別れを知らず知らずのうちに実感されたのだと思います。
なにか嫌なことがあったときには、愚痴を言うのではなく「ありがとう」といった前向きな言葉を発することで気持ちを調えることができるということは東洋や西洋など関係なく言い伝えられています。
ちなみに、「ありがとう」 という言葉は仏教の言葉です。
法句経(お釈迦様の教えを記したとても古いお経)の182に
人の生(しょう)を
受くるは難(かた)く
やがて死すべきものの
いま生命(いのち)あるは有難(ありがた)し
とあります。 この言葉は
今、ここに自分の「命」があることを実感することの大切さを説く言葉であります。
「命」が誕生することは 大変に難しいこと
↓
命が有ることは難しい
↓
有ることが難しい
↓
有り難う
↓
ありがとう
となるのです。
つまり「ありがとう」という言葉は、今ここに命がある事に感謝する言葉なのです。
嫌なことがあったときには愚痴が出てしまいます。
私も、愚痴を垂れ流してしまうことが少なくありません。
死んだ場合、愚痴を言うことはできません。
今生きているから愚痴が言えるのに、生きていることに感謝できていないことはもったいないことです。
しかも、言葉に出すことによって今を生きている自分の命に、愚痴の内容を実感させてしまいます。
それよりも、辛い出来事があったときほど、自分の命に、今を生きていることを実感するような言葉を発した方が良いことは明確です。
分かっているけど、実行するのは難しいことです。
しかし、忘れていては実行できません。
大好きな祖父のお葬式で泣き崩れながらも真剣に「ありがとう」という気持ちを伝える中学生の姿は、
「あなたは、自分の命に対して今を生きていることを実感するような言葉を普段から投げかけているのか」
と私に問うているように感じました。
同時に、愚痴を言うのではなく「ありがとう」といった前向きな言葉を発していない自分を恥じました。
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