昔話シリーズ その8 宝の下駄

昔話シリーズ【8】 宝の下駄
お寺に来た方に
「お寺には3つの宝物があります。なんだと思いますか。」
と訊ねると、ほとんどの方がキョロキョロと本堂内を見渡します。
しかし、私が
「仏法僧(ぶっぽうそう)といって、仏様(仏)・仏様の教え(法)・仏様の教えを大切にする仲間(僧)です。」
と言うと、笑ったりがっかりしたりします。
宝の下駄もそんな話かもしれません。
話しは以下の通りです。
昔、ある村に貧乏な男の子と病気の母親がいました。
ある年の年末、もうすぐ正月なのに、男の子の家には一粒の米もありませんでした。
そこで、親戚のおじさんの家にお金を借りに行きましたが、権三(ごんぞう)おじさんはお金を貸してくれませんでした。
男の子がおじさん家から帰っていると、変な仙人が空から降りてきて、「履いて転べば、背が縮むかわりに小判が一枚出る」という、不思議な一本歯の下駄をくれたのです。
男の子は三回転んで小判を三枚出し、母親の薬と正月の餅を買いました。
しばらくするとこの噂を聞いた権三おじさんがやってきて、宝の下駄を強引に借りていきました。
欲張りな権三おじさんは、大きな風呂敷の上で何度も何度も転び、沢山の小判を出しましたが、自分の身長も小さく縮んでいる事に気が付かず、とうとう小さな虫になってしまいました。
という話しです。
本当に大切な宝は自分の中にあるのに、そのことに気がつかなければ自分の身を滅ぼしてしまうのです。
欲望に身を任せてお金を手に入れても、大切なものを失ってしまうことを教えてくれています。
お経の中にも
偸盗(ちゅうとう)するなかれ。
吾等(われら)もとより空手(くうしゅ)にして、この世に来り、空手にして又帰る。
一紙半銭たりと雖(いえど)も、元来吾等に所有なし。
わずかに可得の見あらば、すなわち盗むと示されぬ。
一切の財宝おしみなく、あまねく衆生に布施すべし。
いかでか盗むに忍びんや。
とあります。
現在の言葉にすると
盗んではいけません。
私たちはもともと何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます。
たとえ一枚の紙、わずかなお金でさえも、もとは自分の持ち物ではなかったはずです。
少しでも自分のものにできると思うなら、それは盗みにつながります。
むしろ持っているものを惜しみなく、みんなに分けてあげましょう。
あげたものを、どうして盗む必要があるでしょうか。
となります。
「これは自分のものだと思ったら、それは泥棒だと思え」と書いてあるのです。
男の子は手に入れたお金を自分のためではなく母親のために使いました。
これは「持っているものを惜しみなく、みんなに分けてあげましょう。」を実践していたのです。
そんな尊い姿があることを宝の下駄という話しは教えてくれているように感じます。

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