昔話シリーズ その6 河童のお礼
この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)で行われてみんなの坐禅会(子供坐禅会)で私が話した内容をまとめたものです。

昔話シリーズ【6】 河童のお礼
昔話に河童が登場することは珍しいことではありません。
その中でも今回紹介する話しはあまり一般的に知られた話しではないかもしれませんので、あらすじを紹介させていただきます。
話しは以下の通りです。
ある日、庄屋さんの家にお侍さんがやってきます。
お侍さんは庄屋さんに
「お願いがある。」
と言うのですが、オドオドしているし、服は濡れているので庄屋さんは、
「このお侍さんは河童が化けている!」
と気がつきます。そこで、河童だと見抜いた上でお願いを聞くことにしました。
河童は
「私はキラキラ光る金物が苦手です。しかし、川の中の家の近くにキラキラ光るものが落ちていて困っている。」
と言うのです。庄屋さんが川の中に落ちている鍬【くわ】の先を見つけて拾ってあげると、河童は安心して帰ることができるとお礼を言って家に帰っていきました。
次の日から毎朝庄屋さんの玄関の前にたくさんの魚が置かれるようになりました。
庄屋さんは河童のお礼だと気がつき、みんなで魚を分けました。
しばらくは毎日魚が届いていたのですが、ある日庄屋さんの家族が誤って包丁を玄関の近くに置いておいてしまいました。
すると、その日から河童のお礼は届かなくなってしまいました。
というお話しです。
「河童はピカピカするものが嫌い」や「恩返しの大切さ」を教えてくれる話のように感じます。
もちろん、間違いありません。
しかし、私はこの“河童のお礼”という話しはもう少し違うことを伝えてくれているように感じます。
それは、最後の誤って包丁を玄関の近くに置いてしまう場面です。
庄屋さん、又は庄屋さん一家を見ていると、
・河童が助けを求めてきたときに素直に助けることの大切さ
・河童のお礼を迷うことなく受け取ること
・そのお礼を多くの人に配っている
など、素晴らしい行為をしています。
そんな庄屋さんや庄屋一家は最後に失敗をしてしまうのです。
河童が怖がるピカピカ光る刃物を置いてしまうのです。
私はこの場面が
“ありがたい”が“あたりまえ”になってしまった瞬間のように感じます。
法句経というお経に
ひとの生【しょう】を
うくるはかたく
やがて死すべきものの
いま生命【いのち】あるはありがだし
今、自分の命があることは奇跡的なことであり、感謝の気持ちを持ち続けることの大切さを説いています。
このように、仏教では“ありがたい”という気持ちを大切にしています。
しかし、私達はどうしても
「生きていることは当たり前」
「ご飯が食べられることは当たり前」
「服があるのが当たり前」
といったように“ありがたい”を忘れ“当たり前”と感じるようになってしまいます。
庄屋さんも河童のお礼が届き始めたころは“ありがたい”と感じていたからこそ河童の嫌いなものは河童が来るところには置いてなかったはずです。
しかし、お礼が“当たり前”となってしまったからこそ、刃物を置き忘れるという大きな失敗をしてしまったのです。
庄屋さんのように立派なことをする人でも、このような失敗をしまうように、油断をすれば私達もすぐに“ありがたい”と“当たり前”を間違えてしまいます。
河童のお礼というお話しは、そうなってはいけないと教えてくれているように感じます。

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